神様の真理(マルコ8章22〜26節) 山本隆久

2018年7月11日10時46分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。(マルコ8:22〜26)

オウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名:松本智津夫)ほか、同教団の元幹部6人の死刑が執行されたと大きく報道されました。この教団による事件は、日本社会において「宗教は恐ろしいものだ」という不安を広げ、定着させているようですが、私は、この日本におけるさまざまな新興宗教が事件を起すたびに、逆に聖書の正しさとイエス・キリストの真実を再発見させられています。そして、イエス・キリストに希望を託して生きることの素晴らしさを思わされます。

日本で生まれるあまたの新興宗教を見ますと、ふと思わされるのは「この日本では、私たちが思う以上に、キリスト教が誤解されているのではないか。あるいは、まったく理解されていないのではないか」ということです。キリスト教とは、イエス様がキリストであり、この方こそが神の子であり、世の救い主であって、この方以外に私たち人間の救いはない、ということを信じ、告白する宗教です。

ですから、自らを再臨のキリストだとか、神から遣わされたキリスト以上の何者だとか、そう主張するような人を否定するのがキリスト教です。また確たる根拠もなく、「彼は自身を再臨とか来臨のキリストだと言っている」などという疑惑を広めることは、その人の名誉を傷つけ、貶めることです。それは、世が世なら、「奴は火刑にして殺さねばならない」ということを容認する意味を持つことであり、そのような中傷を名誉棄損として訴えるのは当然です。

イエス様がキリストであって、それ以外はない。これが実は三位一体論の根本なのですが、どうも教会の中ですら、これをきちんと分かっているか怪しい気がします。いずれにしても、キリストと自称する者は、すべて偽物であるということを聖書は明らかにしています。

本当のメシア(救い主、キリスト)は、自分で自分をメシアだとは言いません。それは、善であるという神の本質に関わることであり、自分で自分を善人だと言う人が善人なのではなく、善を行う人が善人であることと同じです。ところがどうも「キリスト教はさまざまな宗教の One of Them だから、私もキリストになっていいんだ」というように考える人々がおり、またそれが信教の自由だと思われているようです。

マルコによる福音書8章22〜26節において、イエス様は、目の見えない人にご自身のつばをかけ、手で触れて、その目を癒やしています。その大いなる御業は、大勢の人々がいる前でなされたのではありません。弟子たちや、その盲人を連れてきた人々は当然、その現場にいたはずですが、イエス様はベトサイダの町からその盲人を連れ出し、町から離れた場所でこの癒やしの奇跡を行われました。マタイによる福音書には、ベトサイダやコラジンなど、イエス様に敵対的な町を非難する言葉が記録されていますから、その影響もあったのかもしれません。しかしそれは別として、これがもし偽キリストならば、自分に何か特別なことができるのであれば、必ずや人を集め、みんなに宣伝するはずです。

私たちは、イエス様が本当にこの癒やしの奇跡を行われたと信じる者たちであり、メシアは、そのような奇跡を起こす力のある方であると信じています。ところが私たちは、心の中のどこかで「そんなことが起こったはずがない。うわさに尾ひれが付いたでっち上げみたいなものだ。伝説でしょ!」と思っているものです。そのため、そんな癒やしの奇跡などまったくできない、自分をメシアとか、キリストとか、キリスト以上の何者だとか言っている人々に簡単にだまされ、反論もできないのです。

メシアが行う奇跡というのは、株価を正確に予測するとか、何か人の秘密を言い当てるとか、宙に浮かぶとか、そういうものではありません。占いは当たることもありますし、宙に浮かんだ写真など、なんとでも加工できます。占いについていえば、いろいろなことを言うので、そのうちどれかが当たる、あるいは占いの言葉自体が曖昧であるため、どうとでも解釈できる、ということがあります。

かつて、日航機が墜落して多くの方が亡くなる悲惨な事故がありました。その当時、「今年は大きな飛行機事故が起こる。その飛行機のマークは赤い」という予言が当たったとして、もてはやされたことがありました。しかし、世界中の航空会社で赤いマークを使っているところはかなりの割合を占めているそうです。また飛行機事故も、毎年世界のどこかで起こっています。ですからこれは、「いつか雨が降るでしょう」という当たり前のことを、予言であるかのようにいいくるめる言葉のトリックにすぎません。

私たちはそのようなものに欺かれてはならないのです。

イエス・キリストを信じるということは、つまり、この方以外にキリストはいないと宣言することです。また実際に、聖書は、この方以外にキリストはいないということを証ししているのです。つまり、もし「自分がキリストだ」とか、「あの人こそキリストだ」というようなことがあれば、私たちが出会った本当のキリスト(イエス様)と比較してごらんなさい、ということなのです。

その自称キリストは、4千人の給食の奇跡を起こせるのか、病を言葉だけで癒やすことができるのか、足のなえた人を癒やし、死んだ人をよみがえらせるのか――。それが本当にできるのでなければ、キリストではないということを、私たちは信じているのです。そして、その力ある業が、本やさまざまなメディアを通して伝えられることで、単に有名になっていくのではなく、その御業、奇跡それ自体によって、自身がキリストであることが伝えられていくのです。

イエス様は、誰か有名な人と会って、自分の権威を認めさせようとすることはしませんでした。イエス様は、神に呪われた病として恐れられていたハンセン病患者に手を触れて癒やされました。当時、この病は強い伝染力があると思われ、患者は隔離されました。それは、ごく最近まで真実と思われていたのです。そのような病の人に手を触れて癒やしたという話を、私は麻原彰晃やその他、この日本に現れては消えていった数え切れない新興宗教の教祖たちから聞いたことがありません。ですから、彼らはキリスト以上ではないのです。うわべはきっと立派な人々でしょう、人間として尊敬できる部分もあるでしょう。しかし、本質的な邪悪さは、彼らが自分をキリストと同等、あるいは非常に多くの場合、それ以上であると言い広めさせたことにあります。

そして、今回のオウム事件を通じても、私たちは、聖書の教えの正しさと、イエス・キリストの権威を確認しているのです。

イエス様は、武力でご自身が守られることを拒否されました。イエス様とその弟子たちがこの世で働かれていたとき、彼らが人殺しに手を染めたり、物を売りさばいて大金を儲けたりしたということは決してありません。それどころか、死んだ人をよみがえらせています。

日蓮上人は、処刑されようとするとき、光に包まれて、首切り役人が首を切ることができなかったそうです。しかし、日蓮上人は死んでいらっしゃいますし、何よりも彼の弟子は処刑されています。イエス様のご存命中に、イエス様の弟子が殺されたということは伝えられていません。「弟子を死なせはしない。死ぬなら私が死ぬ」というのがイエス様ではないでしょうか。イエス様が捕らえられたとき、弟子たちはみんな恐れて逃げたのです。逃げることを良しとし、ペトロの裏切りをも事前に本人にお話しくださり、その裏切りを赦(ゆる)してくださった方です。すべてをご自身が背負い、十字架の上で凶悪犯と同列にされて殺されました。

裁判で自分に責任が降りかかりそうになってきたら、「実は、あの恐ろしい計画を作ったのは弟子たちだ」などと言う方ではありませんでした。イエス様は捕らえられたとき、最初は黙っていたと聖書は伝えています。自分に不利なことを言われ、黙っていれば不利になるばかりなのに、静かにされていました。一方、麻原彰晃は、裁判の初めは自身の考えをとうとうと述べていました。そして、罰が逃れられないと分かると沈黙しました。

イエスを裁いた大祭司長は問いました。「あなたはメシアか」と。イエス様は答えました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と。

イエス様は、ご自身がメシアであるとは自分からは言いませんでしたし、生きている間は、弟子たちにも言い広めることをしませんでした。しかし「おまえはメシアか」と問われ、「はい」と答えれば確実に死刑にされるときに、「はい」と答えられました。ここに私たちがどのように生きるべきかが示されています。イエス様の告白は命懸けのものです。そのイエス様の命を懸けた告白、また預言の言葉を私たちは信じなければなりません。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」という預言は、イエス様の命懸けの言葉です。ご自身の命を犠牲にして、この言葉を言われたのです。

再び主イエス・キリストは「全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来る」のです。ですから、背広を着たり、豪華な式服を着たりして、どこかの立派な会堂や施設で話している人々は、再臨だろうと来臨だろうと、メシアでもなければ、キリストでもありません。それは世の救い主ではありません。

「弟子たちの間ではメシアであることが秘密裏に知られているが、本当のメシアは自分をメシアだと言わないから、自分でメシアだと言わず、直接『おまえはメシアか』と問われても本人は否定する。しかし本当のメシアなんだ」ということではありません。本当のメシアは、問われれば真実を答えるのです。

決定的なことは、すでに起こったのです。私たちは「全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来る」方を文字通り待ち望んでいるのです。この信じ難い真実こそが真実なのです。これが本当の意味で信じなければならない聖書の逐語霊感説なのです。

富や地位、名誉などを求めること、あるいはこの世の組織力や政治で何かを成し遂げようとし、自らを何者かであるように見せかけることは、すべてサタンの働きです。4千人の給食、5千人の給食の奇跡を起こされたイエス様は、その奇跡により食を得た群衆によって王にされそうになります。しかしイエス様はそれを避け、群衆から離れて一人寂しいところで祈ります。

自ら選挙に立候補して、政治権力を握ろうなどとはしません。これには論理的根拠があります。なぜなら、神からの本当の権力を持っているのですから、人から権威や権力をもらう必要がないのです。

主は来られます。全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて、主は来られます。この方を仰ぎ望んだ一人の人を私たちは知っています。それは、キリスト教会の最初の殉教者ステファノです。彼はイエス・キリストへの信仰を告白し、そのために民衆から石を投げ付けられて殺されてゆくときに、この恵みにあずかる幸いを得ました。

主を信じ告白することは、この世の目から見れば愚かであり、ばかばかしいことです。しかし、まさに「神の愚かさは、人の賢さよりも賢い」のです。この愚かな業を私たちもまた、これからもなしていきましょう。

あの地下鉄サリン事件のような悲惨な事件が繰り返されないために、ばかにされても小突かれても、主イエス・キリストを信じていることを告白し、誠実に神と人を愛することこそ、今この日本に必要なのです。まだきっといるであろう第2、第3の「麻原少年」に真実の神の愛と福音を証しし伝えることが、私たちがこの日本にクリスチャンとして存在する意味ではないでしょうか。そのために私たちキリスト教会は連帯し、キリストの体としてこの日本社会で働いているのです。

私たちの主イエス・キリストにのみ栄光が限りなくありますように。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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