偽善と信仰(マルコ8章14〜21節) 山本隆久

2018年7月4日07時43分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」 弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。(マルコ8:14〜21)

イエス様とその弟子たちが、舟で次の村へ移動しているときのことです。弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中に1つのパンしかありませんでした。おそらく「なぜ、パンが1つしかないのか」「これでは向こうへ着くまでにおなかが減ってしまう」「イエス様だってお疲れなのに」というような話が持ち上がったと考えられます。

この時、イエス様は弟子たちに向かって「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」とおっしゃいました。この言葉の意味は「食べるパンのことよりももっと大切なことがある。自分の心の中にファリサイ派の人々やヘロデ王のような考えが紛れ込んでいないか気を付けなさい」というものでした。しかし弟子たちは、自分たちがパンを忘れてきたことを戒められているのだと勘違いします。

イエス様はこの直前に4千人の人々をわずか7つのパンで満腹にするという奇跡を行っています。そして余ったパンは7つの籠いっぱいになったほどでした。弟子たちの議論は「イエス様がせっかく大変な奇跡を起こして、わずかのパンをあんなに増やしてくださったのに、それを無駄にして、全部忘れてこの1つのパンを持ってきただけなんて、何ていうことだ。ばかも休み休みにしてほしい」「えっ!あんなにあったパンを全部置いてきたのか」というものではなかったかと推察されます。

これに対しイエス様は「そもそもあの4千人の人々を7つのパンで満腹させたのは誰であり、あなた方の前にいるのは誰なのか」という意味のことをおっしゃったのです。そして「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められのでした。

ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種とは何でしょうか。それは、神様を裁く考え、人を支配しようとする思いです。

ファリサイ派の人々は、イエス様のなさった奇跡を見、説教を聞いて、なお「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけ」(マルコ8:11)ました。イエス様のなさった奇跡は、1人や2人の病気を奇跡によって癒やしたというようなレベルではありません。町や村へ行くと、そこで大勢の人々が待ち構えていて、あるいは行く先々を追い掛けてきて、病を癒やしてもらおうとし、そして癒やされたのです。奇跡はファリサイ派の人々の目の前でも起きていたのです。しかし、彼らはイエスの御業が本当に神の力によるものか、悪魔の力によるものか分からないと言って、安息日に手のなえた人を会堂に連れてきて、それをイエス様が癒やされるかどうかを見ようとしました。神様の律法で定められた安息日を守るならば、イエス様はその人を癒やさないはずだと考えたのです。

「安息日を守るべきだ」というファリサイ派の人々の考えは、一見、正しいように思えますが、それはイエス様を明らかに試そうとする態度です。また、彼らは意図的に手のなえた人を安息日の会堂へ連れてきました。彼らが本当にその手のなえた人をかわいそうに思っているなら、他の日にイエス様に会えるようにしてあげればいいのです。正しい人にあえて罪を犯させるような状況をつくり出したのは、ファリサイ派の人々です。にもかかわらず、イエス様はこの手のなえた人を癒やされました。私たち人間がいかに冷淡で愛がないかを嘆かれ、恵みの業を示されました。

このことは、私たちがファリサイ派ではなく、イエス様を信じるクリスチャンだからといって、起こらないことではありません。イエス様は「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」と警告されています。つまり、私たちの内にもファリサイ派のパン種がある可能性があるのです。可能性があるのであれば、ファリサイ派のパン種がどのようなものであるか、私たちはよく理解しなければなりません。そうでなければ、それに気を付けることができないからです。

ファリサイ派の人々は、聖書を生活の中で実践していくためと称して、さまざまな規則を作り続けました。「安息日という休みの日を守るためにはどうしたらよいのか」と真剣に考えて、何歩以上歩いてはいけないとか、何歩歩いてよいとか、あるいはイエス様が非難されたように「安息日には、命に関わるものでない限り病気を治してはいけない。それは労働だから」と定めました。聖書に基づいた規則を作ること、それ自体は大変良いように思われます。1つの戒めが神様から与えられ、その戒めを忠実に守るために「このような場合はどうするか、あのような場合はどうするか」と考えることだからです。

例えば「日曜日は教会の礼拝に出席しましょう」と言いますと、人生に起こってくるさまざまな出席できない急用の例を持ち出してきて「これはよい、あれはいけない」と言い出すことが、私たちの中にもよくあります。そして、その決めたことを持ち出して人を裁くことを私たちはします。

このような思考の罠(わな)は、自己正当化です。規則を作り、規則を守ることによって、自分の正当性と正しさを確認し強化していくことが、ファリサイ派のパン種です。これはこの世の考え方であって、私たちキリスト教会の教えではありません。

イエス様がおっしゃったのは「悔い改めて、福音を信じなさい」ということでした。悔い改めは、自分が間違っていたことを認めなければ、起こりえません。つまり自分の正しさを主張し続けるところに悔い改めは起こり得ないのです。神様の御言葉の前に自らを正当化するのではなくて、罪を告白し、神様の赦(ゆる)しと恵みに感謝して、私たちに罪を犯す人々を赦すということです。

ヘロデのパン種は、私たちの支配欲と関係しています。ヘロデは当時、ローマの庇護の下、イスラエルを支配していた王でした。マルコによる福音書6章では、妻のヘロディアの策略にまんまと乗せられて、不承不承、正義と真実の人、洗礼者ヨハネを殺すことになってしまいます。権力と富に惑わされる象徴ということができます。彼は、洗礼者ヨハネのことも尊敬しており、その話を好んで聞き、殺したくなかったと書かれています。それは事実であり、情状酌量の余地があるのだろうかと考えられますが、これはある意味、聖書の厳しさであると考えるべきです。「自分ではしたくなかった」ということによって、情状酌量がされないということを明らかにしているのです。

それは、エデンの園でアダムが罪を犯したとき、エバのせいにしたのと同じであります。何よりも彼は、洗礼者ヨハネによって、異母兄弟フィリポの妻であったヘロディアとの結婚を不法だと非難されたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めるどころか、ヘロデは洗礼者ヨハネを捕えて獄につないだのです。

ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種のコントラストが明らかになります。ファリサイ派のパン種とは、神の言葉を聞き、それを守ろうとはするのですが、福音、つまり神の恵みに感謝して生きようとしない状態です。彼らは、赦すのではなくて、人々を裁くのです。一方、ヘロデのパン種とは、神の言葉によって悔い改めようとしない状態です。そもそも悔い改める気などありません。自分の欲求に振り回され、人々を支配しようとします。神の恵みは、自分に都合のいいことだけ受け、結局は自分が神様です。彼は雷に打たれたように打ち倒され、体をウジに食い荒らされて死にました。神に栄光を帰さなかったからだと伝えられています(使徒12章)。

主イエス・キリストは、ご自身を私たちの罪を赦すために犠牲とされました。そして十字架の死の屈辱を受け入れてくださいました。それは私たちの罪のためでした。ファリサイ派のパン種やヘロデのパン種は、この世で私たちが正しいと認められ、人々の支配者であろうとすることによって発生し、増え広がります。そのパンは大きくなり、固くなるばかりで、人に分け与えられるものではありません。それは自己増殖を繰り返しますが、自らを与えて、人を生かすものではなく、人を殺すものです。食べられない大きくて堅いパンは捨てるしかありません。私たちの人生は、このようにただ大きくて堅いパンのような人生となってしまっていないでしょうか。

主イエス・キリストは、天から下ったパンです。ご自身を与えて、人を生かします。私たちは誰を生かそうとしているでしょうか。私たちは誰を赦したでしょうか。パウロはファリサイ派でしたが、イエス様によって悔い改めて、福音の伝道のために命をささげました。私たちは、何のために生きているでしょうか。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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