呪いを解くイエス(マルコ5章1〜20節) 山本隆久

2018年6月13日14時43分 コラムニスト : 山本隆久 印刷
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一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。(マルコ5:1〜20)

「呪いを解くイエス」という表題をつけました。イエス様は悪霊に取りつかれた人を解放されたと聖書は伝えています。「呪い」とか「悪霊」などというと、何かそれだけで信頼のできない怪しげなもの、オカルトのような非科学的なものであるかのように思われるかもしれません。しかし、私たちは自分で自分を呪い続けているような人生があることを知っています。

過去に経験した不幸な出来事や不快な出来事によって自分の人生が変えられてしまい、その出来事やその出来事をもたらした人を呪い続けるような人生があります。その出来事がきっかけで、他の人間との関係がおかしくなってしまい、孤立している状態は、このゲラサ人の地で墓に住んでいた悪霊に取りつかれた人と同じではないでしょうか。あるいは、自分で自分を呪ってしまっているような状態ではないでしょうか。イエス様の出現は、そのような人々を悪霊から解放し、呪いを解くことを意味しています。

そして、私たち人間の歴史を振り返りますと、このような呪いや悪霊が非科学的なもの、実在しないものと考えられるようになったのは、ごく最近のことであるということです。聖書が非科学的であるので、このような悪霊についての記録があるのではなく、当時は実際にそのような悪霊が存在すると人々も考えていたのです。聖書は私たちの言語で、私たち人間の世界観に合わせて語っているのです。

今日、呪いや悪霊について語ることを非科学的としたり、信頼できない怪しげなものとしたりする見方が社会の中に根付いてきたのは、聖書の信仰がこの世の中で広がってきた結果であると考えるべきなのです。福音が広められて行く過程で、呪いや悪霊の闇は、福音の光によって照らし出され、消えてきたのです。あるいはその狡猾(こうかつ)さの故に、今はなりを潜めていると考えるべきかもしれません。神の子、イエス・キリストの出現によって、悪霊の働きは明確な実在として取り扱われているからです。

イエス様は、私たちを悪霊から解放します。悪霊に取りつかれた呪いから解放します。ですから、イエス・キリストを信じる信仰は、私たちを呪いや悪霊から解放するのです。「自分は呪われているのではないか」というような思いから解放してくれるのです。私たちは呪われていません。呪いから解放され、祝福の内にあるのです。

それは「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)という信仰から始まっています。私たちは、神が天と地とすべてのものを創造されたと信じ、告白するときに、神の恵みの世界に入れられ、神の恵みの内に生きる人生が始まるのです。悪霊とは、神のこの恵みの世界を妨害する者です。呪いとは、神のこの恵みの世界の秩序に従うのではなくて、自分の欲や望みに世界を従わせようとする思いがつくり出したものです。

私たちは自分の思いから、自分が幸福であるか否かを決めてしまいます。そして幸福であることが、人生の最大の価値であるかのように思っています。健康であること、長生きすること、人々の尊敬を得ること、経済的に豊かであることなどを、私たちは幸福の基準としますが、それは人間が自分の思いや考えに基づいて勝手に決めたものです。

「初めに、神は天地を創造された」という信仰は、健康や長寿、人々からの尊敬や、この世の物質的な豊かさが人生の目的ではなく、それよりはるかに大きな目的があることを宣言しています。人間の人生は、死んでしまえばすべて終わり、忘却されてしまうむなしいものではなく、永遠なる神様の御業の一つであるということです。

「なぜ神様を信じる人で短命な人がいるのか」と、問われることがあります。それはすべての人が神様によって、イエス・キリストの御業によって救われているからです。そうでなければ、短命な人はイエス・キリストの救いが及ばなかった人であり、イエス・キリストの救いは長寿を全うした人にしか有効ではないことになります。

イエス・キリストを信じる信仰が与えられたにもかかわらず、私たちが困難な中に生きざるを得ず、生涯不幸から解放されることなく、不幸の中で死ぬということもあります。しかしだからと言って、その人の人生は意味がないとか、神様はその人を見捨てたなどと言うことはできません。なぜならば、私たちは十字架にかけられて死に、3日目に復活された方を信じているからです。

イエス様は呪われた人生を生きてくださいました。そして呪われた者として殺され、3日目に復活して天に昇られ、神の右に座しておられます。イエス様は、この世で長寿を全うしたわけでもなければ、富を持っていたわけでもありませんでした。高い地位にも就いていませんでした。しかし、真の神の子でした。健康ではあられたと思います。だから健康が一番大事でしょうか。そうではありません。イエス様は、あらゆる病気の人々を癒やすことがおできなり、実際に癒やされました。ですから、私たちにとって健康であることが人生にとって一番大切なことではありません。イエス様を信じることが一番大切なことです。

つまりそれは、私たち自身が自分自身を、このゲラサ人の地で墓を住み家として暮らしていた汚れた霊に取りつかれた人と同一視できるかどうか、ということが問われているということです。

この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ5:3〜5)

墓場を住まいにするとは、私たちがこの世の価値観に安住しているということです。自分の社会的な地位や財力を誇りとし、思い上がっているのであれば、この墓場に住んでいる人と同じです。地位の高い政治家や学者を身近に知る実に多くの人々から、そうした人々が、墓場に住んでいる人のように手の付けられない暴君、あるいはエゴイストであったという話は、よく聞くことではないでしょうか。そのような人々が実は他人を傷つけ、自分自身を傷つけていたということを、私たちはよく聞くのです。

私たち自身、私たちが神の御言葉に自分自身を従わせるのではなくて、自分の思いに神の言葉を従わせようとして勝手気ままに生きている、ということを御前に告白することができるのかが問われているのです。神の御心など考えることなく、祈ることもなく、祈っても何の変化もなく、悪と怠惰の内に私たちは生きているのではないでしょうか。

イエス様は、そのような悪と怠惰の内に、自分の思いだけにとらわれて生きている私たちを解放してくださいます。「初めに、神は天地を創造された」と信じる信仰の世界に私たちを入れてくださり、神と共に歩む永遠の世界へと導いてくださいます。

イエス様は、愛する人を失った故に悲しみの内にあり、望みを失ってしまった人々に望みを与え、その心を癒やされます。例えば、最愛のわが子を失うようなことがれば、それからすぐに立ち直ることは非情に困難でしょう。親が死んだ子どもの部屋を、その子が生きていた当時のままにしておくことはよくある話です。しかし実はこのことは、墓場に住んでいる汚れた霊に取りつかれた人と同じことをしていることなのです。

「ええっ!? 何んてひどいことを牧師は言うのだろう」と思われるかもしれません。しかしそれは真実であると私は思います。つまりイエス様は、そのような深い悲しみの涙をもぬぐってくださる方であり、私たちの高慢を打ち砕き、「初めに、神は天地を創造された」という信仰の告白と賛美を、私たちに可能ならしめてくださる方であるということです。

この世は過ぎ去るのです。それが復活の事実が示す、決定的な現実です。この現実の前に私たちはひれ伏さねばなりません。そして、愛する者を失った深い悲しみを癒やしてくださるのは、復活された神の子イエス・キリスト以外いないのです。イエス様は、マルタとマリアの兄弟ラザロをよみがえらせました。私たちの主イエス・キリストは、愛する者の死、それを悲しむ者の悲しみをおろそかにされる方ではありませんでした。その悲しみを共に悲しみ、そしてその悲しみを超えて、喜びと神の御力の偉大さを示し、悲しみを賛美と感謝に変えることができる方です。

それとも私たちは、自分自身の悲しみの深さと執拗さに、死んだ人を生き返らせることのできる力があると思っているのでしょうか。それは神様にしかできないことであり、私たちの信じる神様はそれがおできになる方です。

神様の最大の悲しみは、この愛する者の死を悲しむ悲しみを癒やすことができる方を、人々に遣わし、その命を犠牲にして、癒やしの確かな道を開いてくださったのに、その道を人々が(いや私たち自身が)あざけり、ばかにしていることです。

それは、私たちイエス・キリストを信じている者たちの責任でもあります。私たちは福音を語り、証ししなければなりません。私たちは、あの墓場に住んで人々に抗(あらが)い、昼も夜も叫び続けているような悪霊に取りつかれた人と、自分も同じであった、あるいは同じだという証しをすることへと召されているのです。

その時、神の力は私たちに明らかとなり、私たちはこの世の力から解放されて、神の永遠の未来へ向かって歩み出すのです。それが私たちの証しです。私たちはもはや墓場には住んでいないのです。この世の富に心奪われるのではなく、神の御心を行うことに生きるのです。

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山本隆久

山本隆久(やまもと・たかひさ)

1961年名古屋市生まれ。都留文科大学国文科在学中の81年、日本基督教団谷村教会(山梨県都留市)で受洗。88年日本聖書神学校を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学神学部に学び、95年M.Th.取得。日本基督教団正教師。山梨、山形の各県を経て、2000年より水戸市在住。在日インドネシア人教会・大洗ベツレヘム教会(茨城県大洗町)協力牧師。

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