福音の回復(52)罪を悔い改めよ? 三谷和司

2018年1月19日07時28分 コラムニスト : 三谷和司 印刷
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「罪を悔い改めよ」と言ったり、あるいは「罪を悔い改めよ」と言われたりしたことはないだろうか。何度となくあるだろう。この社会では罪というと、それは自らが「反省」すべき事柄であり、自分の力で克服すべきものと思われているので、罪を犯したなら容赦なく「罪を悔い改めよ」と責められる。犯した罪を悔やみ反省することが、容赦なく求められる。

私たちはそうした経験を社会の中で積み上げてきたので、神も人の罪を見たなら「罪を悔い改めよ」と言い、罪の反省を求めておられると思ってしまう。だから教会でも、当たり前のように「罪を悔い改めよ」という説教が繰り返される。そして誰もが、それは聖書の教えだと思い、このセリフに疑問を抱かない。

ところが、聖書を詳しく調べてみると、「罪を悔い改めよ」というセリフは1カ所もないことに気付く。嘘(うそ)だと思うかもしれないが、これは事実である。つまり、私たちは罪に対し、とんでもない勘違いをしているということだ。聖書にない教えを、聖書の教えだと思い込んでしまっているのである。

そこで今回のコラムは、「罪を悔い改めよ」について考えてみたい。私たちが普段当たり前のように言っている、「罪を悔い改めよ」の誤りを正したい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。

【罪を悔い改めよ】

(1)「悔い改めよ」の意味

聖書には、「罪を悔い改めよ」というセリフは1カ所もない。それには理由があるが、その理由は後述するとし、本当に「罪を悔い改めよ」というセリフはないのか、そのことを最初に確かめておこう。その作業は、聖書にある「悔い改めよ」の意味を知ることから始まる。

日本語で「悔い改めよ」というと、自分のした過ちを反省し、心を改めよという意味になる。悲しみを覚え、悔いることを意味する。そのため、日本語訳の聖書に、「悔い改める」と書かれていれば、罪を悔いて「反省する」という意味に人は理解する。だが、聖書の中で「悔い改める」と訳された箇所の原語を見てみると、そこには悔いて「反省する」という意味はまったくない。ならば、どのような意味があるのだろう。

新改訳聖書第3版の旧約聖書において「悔い改める」と訳されているのは、ヘブライ語の「シューヴ」[שׁוּב]である。これは元来、「方向転換」を意味する言葉であり、「帰る」「返る」「返す」「引き返す」「戻す」「回復する」「立ち帰る」という意味であって、そこには「反省する」とか、「悔いる」とかいう意味はまったくない。あくまでも向きを変える行為を意味する。従って、旧約聖書で「悔い改めよ」と訳されている箇所の本来の意味は、心を神に向け、神に立ち返れということであって、悔いて反省せよではない。ならば、新約聖書ではどうなっているだろう。

新約聖書はギリシャ語で書かれたが、「方向転換」を意味するヘブライ語の「シューヴ」は主に「メタノエオー」[μετανοέω]で表現された。これは元来、「後で考える」という意味であって、それが発展し、善であれ悪であれ、心の向きを変更するという意味にも使われるようになった。「シューヴ」は他にも、「エピストレポー」[ἐπιστρέφω]、「ストレポー」[στρέφω]、「アポストレポー」[ἀποστρέφω]でも表現されたが、ほとんどは「メタノエオー」が使われた。

それを、日本語訳の新約聖書は「シューヴ」と同じように、「悔い改める」と訳している。しかし、そこには日本語の「悔い改める」が意味する、「反省する」や「後悔する」などの意味はまったくない。あくまでも「シューヴ」と同じように、「方向転換」の行為を意味する。それは心を神に向けることであり、神に立ち返ることを指す。

そもそも日本語の「悔い改める」の意味を表現したければ、すなわち、罪に対する悲しみや反省、後悔を求めるのであれば、例えばギリシャ語には「ペンテオー」[πενθέω]という言葉がある(マタイ5:4、マタイ9:15、マルコ16:10などで使われている)。例えばヘブライ語には、「アーナー」[אָנָה]という言葉がある(イザヤ3:26、19:8などで使われている)。

これらの言葉は、まさしく日本語でいうところの「悔い改める」という意味になる。しかし、聖書はそうした言葉があるにもかかわらず、それを使わずに、ただ「方向転換」の行為を表す言葉を使った。ゆえに、「シューヴ」も「メタノエオー」も、「悔い改める」と訳してはならないのである。そのように訳すことは、原文をまったく無視することになる。

考えてみてほしい。病人がいくら病気になったことを悔いて反省しても、医者のもとに行かなければどうなるかを。当然、病気は癒やされない。病気になったことをいくら反省したところで、病気はまったく治らない。大事なことは、医者に診てもらい治すことにこそある。罪の場合も同様である。神にとって人の罪は病気であり、神にしか治せない。だからイエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われた。そして、さらにこう言われた。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

罪は病気ゆえに、イエスはわたしのもとに来て治療を受けるよう言われたのである。「シューヴ」も「メタノエオー」も、そのことを端的に促す言葉にすぎない。治療を受けに、神のもとに来なさいである。ところが、その言葉を日本語の聖書は「悔い改める」と訳してしまった。ここに誤解が生じ、教会では「罪を悔い改めよ」と言われるようになった。そして、誰もがそれを聖書の教えと信じている。これは、何も日本語だけの話ではない。英語でもドイツ語でも、「悔い改める」という意味に訳されてしまった。悲しみ、悔やむという意味に訳され、同様の誤解が生じている。

このように「悔い改める」という訳は、聖書の原文の意味とは掛け離れている。そうであっても、人は罪が「病気」だとは知らないので、こうした訳に疑問を抱かない。しかし、「シューヴ」や「メタノエオー」がいくら「悔い改める」という意味に訳されたとしても、その目的語に「罪」がくる原文は1つもないので、どちらにせよ、「罪を悔い改めよ」という御言葉は存在しない。では、そのことを新改訳聖書第3版の訳を通して確かめてみよう。

(2)新約聖書を調べる

誰もが、聖書に「罪を悔い改めよ」というセリフがあると思っている。だから昔から、「罪を悔い改めよ」という説教が繰り返されてきた。ところが、新改訳聖書第3版の新約聖書を見てみると、そこには、「罪を悔い改めよ」と書かれた箇所は1つもないことに気付く。ただし「罪」という言葉ではないが、「罪の行為」を表す言葉が使われ、それを悔い改めるようにと書かれた箇所は幾つかある。その訳を見る限り、神は人の罪に対し、神の治療を受けるよう促すのではなく、罪に対する反省を求めているかのように思えてしまう。そこで、それらの箇所を1つずつ見てみよう。1つ目はこれである。

「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦(ゆる)されるかもしれません」(使徒8:22)

ここでは、「悪事」という言葉が「悔い改める」の目的語として訳されている。「罪を悔い改めよ」ではないが、類似した意味に訳されている。しかし、ギリシャ語の本文を見ると、「悪事」は、「悔い改める」の目的語になどなっていない。「悪事」には、「~から(離れて)」という意味の前置詞「アポ」[ἀπὸ]が付いているので、ここは「この悪事から、悔い改めなさい」と訳さなければならない。

そして、「悔い改めよ」と訳された「メタノエオー」は、「心を主に向けなさい」が正しい意味となるので、悪事から離れて心を神に向けなさいというのが、この箇所の正確な意味になる。そこに「主に祈りなさい」が来るので、「悪事を犯したなら、心を主に向け、祈りなさい」となる。要するに、罪を犯したなら、神の治療を受けなさいということだ。では、別の箇所を見てみよう。

「そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった」(黙示録16:11)

ここでも、「自分の行い」が「悔い改める」の目的語として訳されている。しかし、ギリシャ語の本文を見ると、「自分の行い」は、「悔い改める」の目的語になどなっていない。「自分の行い」には、「~の中から(内側から)」という意味の前置詞「エク」[ἐκ]が付いているので、ここは、「自分の行いの中から、悔い改めようとしなかった」と訳さなければならない。ゆえにこの箇所も、「自分の行いを反省しなかった」という意味ではない。「自分の行いから、心を神に向けようとしなかった」という意味であり、神の治療を受けなかったことが書かれているにすぎない。では、別の箇所を見てみよう。

「・・・その手のわざを悔い改めないで、・・・」(黙示録9:20)
「・・・この女は不品行を悔い改めようとしない」(黙示録2:21)
「その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった」(黙示録9:21)

これらの御言葉も、罪の行為を「悔い改める」の目的語として訳されている。しかし、ギリシャ語の本文を見ると目的語にはなっていない。やはり、先に見たと同じ前置詞「エク」[ἐκ]「~の中から」が付いている。それゆえ、これらの箇所はどれも、「罪という行為を悔い改めなかった」ではなく、「罪という行為の中から、心を神に向けようとしなかった」という意味になる。では、もう1カ所見てみよう。

「そして私は、前から罪を犯していて、その行った汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか」(Ⅱコリント12:21)

この御言葉も、罪の行為が「悔い改める」の目的語として訳されている。しかし、ギリシャ語の本文を見ると、罪の行為には「~の上に」、「~のゆえに」という意味の前置詞「エピ」[ἐπί]が付いている。従って、「・・・好色を悔い改めない」は、「・・・好色のゆえに、心を神に向けようとしなかった」という意味になる。この箇所は、罪の行為を繰り返すだけで、神に立ち返ろうとしないことが書かれているのであって、罪を反省しないという意味ではない。

このように、新約聖書には、「罪を悔い改めよ」と書かれたところはもとより、「罪の行為を悔い改めよ」と書かれたところすらない。書かれていたのは、罪ゆえに、「悔い改める」(心を神に向ける、神に立ち返る)ことであって、罪を反省することではない。罪は「病気」ゆえに、罪から離れ、神の治療を受けるよう教えている。では、旧約聖書を調べてみよう。

(3)旧約聖書を調べる

新改訳聖書第3版の旧約聖書には、イザヤ書59:20、エゼキエル書18:28、33:14の3カ所に、「罪を悔い改め」と訳された箇所がある。しかし、原文を見てみると、エゼキエル書18:28、33:14の2カ所の「罪」には、「~から」(起点)、「~のゆえに」(原因、理由、材料)を意味する前置詞「ミン」[מִן]が付いている。従って、「罪を悔い改め」は明らかに誤訳であり、「罪から、神に立ち返る」となる。罪を反省せよではなく、罪ゆえに、神の治療を受けなさいということが書かれている。ならば、イザヤ書59:20の場合の「罪」はどうだろう。

「しかし、シオンには贖(あがな)い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る」(イザヤ59:20)

ここにある「そむきの罪」には前置詞がない。ないから、目的語かどうかを前置詞では判断できない。だとしても、その名詞に冠詞が付くか、あるいは目的語を表す記号(エート)[אֵת]が付いていれば目的語となるので、その場合は「そむきの罪を悔い改める」という訳は正しいことになる。しかし、この箇所の「そむきの罪」を見ると、どちらも付いていない。この場合は独立形の名詞とみなし、「悔い改める者」という合成形の名詞を説明する形として読むことになる(参考:『Wilhelm Gesenius’Hebräische Grammatik』Leipzig F.C.W.Vogel 1909 §128-2、3 435、438ページ)。

つまり、この「そむきの罪」は単に、「悔い改める者」がどのような領域、理由、特徴を持つかを説明しているにすぎない。従って、ここは「そむきの罪を悔い改める者」ではなく、「そむきの罪という点で、悔い改める者たち」という意味になる。そして、「悔い改める」と訳されている原文は「シューヴ」であり、「立ち返る」が正しい意味なので、ここに書かれている内容は、神に背いてきたということで神に立ち返るなら、神の救い(癒やし)が来るということになる。

そうであれば、同じイザヤ書に書かれている、「彼らが【主】に立ち返れば(シューヴ)、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる」(イザヤ19:22)や、「立ち返って(シューヴ)静かにすれば、あなたがたは救われ」(イザヤ30:15)とも内容の整合性が取れる。

このように、旧約聖書において「罪を悔い改めよ」と訳されている箇所は、どれも誤訳である。では、「罪を悔い改めよ」という直接的な表現ではないが、それに類似した表現に訳されている箇所も併せて見てみよう。

「・・・彼らがその行い悔い改めなかったからだ」(エレミヤ15:7)
「もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪悔い改めず、・・・」(エゼキエル3:19)
「・・・彼がその態度悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18:23)
「・・・かえって、悪者がその態度悔い改めて、・・・」(エゼキエル33:11)
「・・・あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざ悔い改めよ・・・」(ゼカリヤ1:4)

これらの御言葉も、罪の行為を表した単語が、「悔い改める」の目的語として訳されている。しかし、罪の行為を表したこれらの単語にはすべて、「~から」(起点)、「~のゆえに」(原因、理由、材料)を意味する前置詞「ミン」[מִן]が付いている。それゆえ、「罪の行為悔い改める」ではなく、「罪の行為から、神に立ち返る」としなければならない。どの箇所も誤訳であり、原文には、「罪の行為を悔い改めよ」とは書かれていない。

ちなみに昨年、新改訳聖書第3版の改訂版、新改訳2017が出版された。その訳を見てみると、イザヤ書59:20、エゼキエル書18:28、33:14の3カ所はどれも修正され、「罪を悔い改め」という訳は消えていた。例えばイザヤ書59:20は、「そむきの罪を悔い改める」ではなく、「背きから立ち返る者」となっていた。さらには、最後に取り上げた、罪の行為を表した単語が「悔い改める」の目的語として訳されていた箇所もすべて、罪の行為から立ち返るに修正されていた。今回は、どれも原文どおりに訳されている。

見てきたように、旧約聖書にも、「罪を悔い改めよ」と訳せる箇所はない。新約聖書だけでなく、旧約聖書のどこにも「罪を悔い改めよ」というセリフなどない。私たちは当たり前のように「罪を悔い改めよ」と言うが、それは聖書から来た教えではないということだ。こうした誤解は、兎にも角にも、罪が「病気」であることを知らないために起きる。罪が病気だと知れば、「病気を悔い改めよ」というセリフなどあり得ないことはすぐに分かる。そこで、罪が「病気」であることも見ておこう。

【罪は病気】

(1)罪は「病気」?

聖書は、罪をこう定義する。「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)。神の律法に逆らうことが罪とされるが、それは「神と異なる思い」から始まるので、罪とは「神と異なる思い」を指す。ならば、どうして神に似せて造られた私たちが、「神と異なる思い」を抱くようになったのだろう。聖書はその原因を、悪魔の仕業による「死」が、人の中に入り込んだからだという。つまり、「死のとげ」が人の罪(神と異なる思い)になったという。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。なぜそうなのか、簡単に説明しよう。

聖書がいう「死」とは、神との結びつきを失うことを指す。ゆえに「死」が入り込むと、人は神と「疎外」された関係になり、その姿も無限から有限となり、人が住む世界も無限から有限になってしまう。そして、神と「疎外」された関係になると、人は「神の愛が見えない不安」を抱くようになる。また、その姿が無限から有限になると、人は「肉体の死に対する不安」を抱くようになる。そうなると、人は「不安」から逃れようと必死になり、見えるものに安心を求める「肉の思い」を抱くようになる。ここに、「神と異なる思い」となる「罪」が生まれる(参照:福音の回復(49))。

私たちの「罪」は、まさしく悪魔の仕業による「死」が人を支配するようになったことで生じるようになった。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)。だから、人の罪は「病気」となる。さらに言うと、罪は「死」が原因となれば、私たちは「ダメな者」だから罪を犯すわけではない、ということになる。人は、あくまでも神に似せて造られた「良き者」であり、人の中には何ら問題はないということになる。要するに、神は善なる方であり、その方が造られたものはすべてが善であり、それは非常に良かったということだ。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)

このように、人はあくまでも「良き者」であり、人の罪は人に入り込んだ「死」に原因がある。ゆえに、人の罪は「病気」という扱いになる。このことを、さらに掘り下げてみよう(参照:福音の回復(48))。

(2)人は「良き者」

人は神に似せて造られた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。そのため、人だけが神の「いのち」を分けて造られた。神の「いのち」による「息」(魂)が吹き込まれた。

「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)

ゆえに、人の本質は神の「いのち」であり、そこには「神と異なる思い」(罪)を抱かせる装置などなかった。ただエバは悪魔に欺かれ、「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)、そのことで「神と異なる思い」を抱いてしまった。エバを通してアダムも、「神と異なる思い」を抱いてしまった。その結果、神と1つ思いの関係は立ち行かなくなり、人は神との結びつきを失う「死」を背負うこととなり、そのことで「不安」を抱くようになった。その「不安」が、「神と異なる思い」(罪)を生み出す装置となったのである。

そして聖書は、「死」が生じさせた「不安」を「死の恐怖」と呼ぶ。人は一生涯「死の恐怖」の奴隷となったことで罪を犯すようになったという。そこでキリストは十字架に架かられた。それは「死」を持ち込んだ、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯「死の恐怖」につながれて奴隷となっていた人々を解放するためであった。

「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14、15)

このように、私たちの犯す「罪」は「死の恐怖」に原因がある。「死の恐怖」という「死のとげ」が、人の「罪」になった。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。罪の行為に至るさまざまな「欲」は、神が造られた人の「本性」からではなく、「死の恐怖」が支配する「この世」から出るようになったのである。

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(Ⅰヨハネ2:16)

このことから、あくまでも人は「良き者」であって、人の罪は「病気」という結論が導き出される。人の犯す罪は「死」が原因である以上、人の手には負えない「病気」という扱いになる。そのことは、イエスが人の罪にされた対応を見れば、まったくもって疑う余地がない。では、イエスのされた対応も見てみよう。

(3)イエスの対応

イエスは、人の罪に対して次のような対応をすると言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)

イエスはここで、人の罪は「病気」であり、ご自分はそれを癒やす医者であると言われた。それはつまり、人の罪を裁くために来たのではなく、救うために来たということだ。だからイエスは、次のようにも言っておられる。

「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)

イエスはここで、罪を裁くのではなく、「世を救う」ために来たと言われた。「救う」と訳されたギリシャ語は「ソーゾー」[σῴζω]で、「癒やす」という意味が含まれる。イエスは、ご自分は癒やすために来たと言われたのである。それが人の罪に対する一貫した考えであるからこそ、イエスは「罪を反省せよ」とは言わずに、こう言われた。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

重荷とは人の「罪」を指す。それを治療するから、わたしのところに来なさいと言われた。そしてイエスは、人の罪が「神の愛が見えない不安」と「肉体の死に対する不安」から生じていることを知っていたので、自らが十字架に架かることで、こうした不安を取り除こうとされた。その打ち傷によって、罪という病気を癒やそうとされたのである。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)

この十字架は、かつて次のように預言されていた。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ53:4)。キリストが背負う私たちの罪は、私たちの「病」だと言われていた。

このように、人の罪に対するイエスの対応は、まさしく「病気」に対する対応であり、そのことからも人の罪が「病気」であることは疑う余地などない。罪は人の「本性」から生じたのではなく、あくまでも悪魔の仕業による「死」から生じた。だから聖書は、「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(Ⅰヨハネ3:8)と教える。つまり、「罪が赦される」とは、「罪が癒やされる」ことを意味する。それで聖書は、次のように教えている。

「そこに住む者は、だれも『私は病気だ』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される」(イザヤ33:24)

さらには、「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」(詩篇103:3)と教えている。「罪が癒やされる」ことを、「病が癒やされる」と言い換えている。また、次のようにも教えている。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」(ヤコブ5:15)

ここでも、「罪」と「病気」が同列に扱われている。以上で、人の罪は「病気」であることの説明は十分であろう。罪は「死」が原因で生じた「病気」ゆえ、神の治療を受けることでしか治らない。いくら「罪を悔い改め」ても意味がない。そうした事情から、聖書には「罪を悔い改めよ」という教えがない。そうとも知らず、私たちは「罪を悔い改めよ」と言ってしまう。

実は、「罪を悔い改めよ」と言ってしまうのは、罪が「病気」とは知らないためだけではない。そこには、より根本的な問題がある。それは、人間には善か悪かを選択できる「自由意志」があるという思い込みである。確かに、善か悪かを選択できる「自由意志」を人が持っているのであれば、悪を選択して罪を犯すことは、己の力で処理すべき事柄となる。そうであれば、「罪を悔い改めよ」と責め、罪の反省を求めることは正しいという話になる。ゆえに、「罪を悔い改めよ」という話を正すには、人間には「自由意志」があるかどうかも正さなくてはならない。そこで、「自由意志」についても併せて見ておこう。これに関しては、昔から議論が繰り返されてきた。

【自由意志】

(1)自由意志を巡る議論

教会では当たり前のように、「罪を悔い改めよ」という説教が繰り返されてきた。そして、誰もが「罪を悔い改めよ」は聖書の教えだと思い、このセリフに疑問を抱かなかった。しかし、これは聖書の教えではない。聖書には、そのような御言葉は1カ所もない。にもかかわらず、誰もが聖書の教えだと信じて疑わないのは、人には善か悪かを選択できる「自由意志」があると思い込んでいるためだ。そう思うので、悪を選択して罪を犯したなら本人が悪いとなり、「罪を悔い改めよ」と叫んでしまう。だが、人には「自由意志」などない。そのことは、長年の哲学の議論を通して明らかになった。その議論の経緯を簡単に説明しよう。

人間の現状を分析する学問が哲学である。哲学は紀元前からあり、その歴史は古い。その哲学では当初、人間には「自由意志」があると考えられていた。善か悪かを選択できる意志を人間は持っていると考え、それを土台に人間の現状を分析してきた。しかし、17世紀になるとパスカルがそれに疑問を呈した。人には「不安」があり、意志を思いどおりにすることなどできないことを論じた。

彼の疑問に同調する人たちは次第に増え、19世紀になるとキルケゴールが人間の実存を、「有限性」「疎外」「自己喪失」などによって説明するようになった。人間は無限ではなく「有限」であり、人間が持つ本質的な性質とは「疎外」され、人間は「自己喪失」状態にあるとした。そのことで「不安」が生じ、それが人を支配しているとし、「自由意志」に抗議した。

20世紀になると、フロイトが科学的な方法によって、人の意志を裏で操る「無意識」を発見する。それ以降、心理学が急速に発展していく。こうして、今日では善か悪かを選択できる「自由意志」など人は持っていない、ということが常識になった。つまり、いくら人に道徳律法を説いたところで、人は律法を行えるようになるわけではないということだ。パウロも、それについてはこう言っている。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです」(ローマ7:15、16)

パウロは、自分には「自由意志」などないと言い切った。自分がしたいと思うことを選択したくても、それができないと言った。その理由をこの続きで、自分の中に罪が住みついているからそうなると言った。「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:17)。この罪こそ、キルケゴールの言う「不安」であり、人の意志を裏で操作する「無意識」になる。では、このパウロの話をさらに深く見てみよう。

(2)パウロの発見

今日の哲学も心理学も、「自由意志」を支持しない。一昔前の哲学では支持されていたが、キルケゴールが人を支配する「不安」を発見して以来、急速に支持を失った。そして、フロイトが人の意志を裏で操る「無意識」を科学的に証明したことで、支持は完全に失われた。善か悪かを選択できる「自由意志」など、人は持っていないことが決定的となった。ところが驚くことに、このことをパウロははるか昔に発見していたのである。彼はこう述べている。

「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7:19)

パウロは、自分には善か悪かを選択できる「自由意志」などないと言い切る。それは、自分の心の律法に対して戦いをいどむ、罪の律法があるからだと言う。

「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」(ローマ7:23)

自分でしたくないことを選択するのであれば、それを行っているのはもはや私ではないと言う。私ではなく、私のうちに住む「罪」だと言う。パウロは、善を選択したいと願っても、それをさせない「悪」が宿っているという原理を見いだしたのである。

「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」(ローマ7:20、21)

このように、人間には善か悪かを選択できる「自由意志」などないということは、パウロが神の霊感によってはるか昔に教えられていた。善を選択したいという意志があっても、それを裏で邪魔してくる「悪」があることをパウロは神から教えられていた。そしてその「悪」を、「私のうちに住む罪」とパウロは言った。この「罪」こそ、キルケゴールが発見した「不安」であり、フロイトが言うところの「無意識」に当たる。

すなわち、人は「不安」の奴隷なのである。これを聖書は、「死の恐怖」の奴隷と呼ぶ。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)。なぜなら、この「不安」は「死」から来たからだ。いずれにせよ、聖書は、人は「死の恐怖」の奴隷なのであって、自由人ではないことを教えている。人には、自分の願うところを自由に選択できる「自由意志」などまったくないことを教えている。今日の哲学も心理学も、人には「自由意志」などないというが、そのことは聖書がはるか昔から教えていたのである。聖書はこのことを踏まえ、「義人」は1人もいないと断言する。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10~12)

となれば、「罪を悔い改めよ」と叫んだところで、むなしいだけとなる。人に「自由意志」があるのなら大いに叫べばよい。そして、罪を自力で解決させればよい。しかし、「自由意志」などない以上、そんな要求をすれば人は絶望に追い込まれてしまう。罪が改善されるどころか、罪を悪化させてしまう。そこで最後は、「罪を悔い改めよ」が引き起こす問題を考え、罪に対する正しい対応について論じてみたい。

【正しい対応】

(1)罪を悪化させる

近代を迎えるまでの医学では、人が病気になると、その原因は血にあると信じられていた。病人を癒やすために、その人の血を抜いたのである。これでは決して良くならないことは言うまでもないが、まじめに血を抜く治療が行われていた。実際、アメリカ合衆国の初代大統領のジョージ・ワシントンが肺炎になったとき、血を抜く治療が行われた。しかし、その治療が仇となり、大統領は大量出血で死んでしまった。正しい治療を知らなかったとはいえ、これは何という悲劇だろう。

同様に、罪に対し「罪を悔い改めよ」という治療を行えば、同じような悲劇を招いてしまう。教会を訪ねてくる人たちに「罪を悔い改めよ」と言うことは、罪を改善するどころか悪化させてしまうのである。ならば、どう悪化させてしまうのだろう。それを知るには、教会を訪ねてくる人たちはどういう人たちかを知る必要がある。

教会を訪ねてくる人たちは、自分の「不完全」さに満足できない人たちである。というより、誰もが神との「疎外」から生じた「不安」を、それは自分が「不完全」だから生じると勘違いし、自らの「不完全」さには満足することができない。人生を白か黒かで判断し、自分が「完全」でなければ赦せない。それで、誰もが「完全」な自分を目指そうとする。

それは人から良く思われる自分を目指すということであり、そのことで「不安」から抜け出そうとする。誰もがそうした試みをする中、「完全」な自分になどなれないと気付き、そのことで絶望する人たちが出てくる。そういう人たちが、救いを求め、教会を訪ねてくるのである。そうした彼らに、「罪を悔い改めよ」と説けばどうなるだろう(参照:福音の回復(51))。

彼らにしてみれば、それは「不完全」であってはならないというメッセージになる。神に受け入れてもらいたければ、「完全」になれという意味になる。そのため、「完全」になれないことに絶望して来た人たちは、ますます「完全」な自分を目指すことになる。しかし、「完全」になることなど不可能なので、そうなれば自分が「完全」な者にでもなったかのように装うしかない。

そこで人は、誰かを裁くことで装うようになる。人を裁けば裁くだけ自分を高くすることができるので、裁くことで自分の「完全」さを装うようになる。すなわち、「罪を悔い改めよ」と説けば説くだけ人は人を裁くようになり、そのことで自分を高くし、「完全」である自分を装うようになってしまうのである。人を裁くことで自らの「完全」さをアピールし、「完全」になれないことの絶望を回避しようとする。牧師も、他の教会を裁くことで自らの「完全」さをアピールし、「完全」になり得ないことの絶望を回避しようとする。

こうして、教会では誰もが裁くことで「完全」な自分を装うようになる。しかし、それはイエスが言われた、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7:1)を無視することであり、御心に逆らう罪が知らぬ間に拡大していくことを許すことになる。これが、罪が悪化していくことの実際である。

しかし、そうなれば人はますますつらさを覚えるようになり、教会に失望する。失望すれば、この世のカウンセリングに救いを求めるようになる。本来であれば、教会が救いの場となるはずが、そうではなくなってしまうのである。これこそが「罪を悔い改めよ」が引き起こす、教会における悲劇にほかならない。では、人が救いを求めるカウンセリングの現場では、どのような処置がなされているかを見てみよう。すると、そこでは、ある意味正しい処置がなされていることに気付く。

(2)カウンセリングの現場

キルケゴール以来、実存哲学が発展し、人間の現状はかなり正確に把握できるようになった。それによると、人は、人が持つ本質と対立した関係にあり、そのことゆえに「不安」を抱くという。人が持つ本質とは「神」のことであり、人は神と「疎外」された関係にあるために「不安」を抱くのである。その「不安」が人の意志を裏で操作する意志になったことから、これを「無意識」という。先に述べたように、この「無意識」の存在を20世紀になるとフロイトが科学的な方法によって証明した。ここから心理学が発展し、カウンセリングが誕生する。

今日、カウンセリングのアプローチは、人間理解の違いから、大きく3つに分けられる。行動理論に基づくアプローチと精神分析理論に基づくアプローチ、そして人間学的・実存的アプローチである。この最後のアプローチは、20世紀を代表する神学者パウル・ティリッヒに影響を受けたカール・ロジャーズ(1902~87)によって発展し、ヒューマニスティック・アプローチとも来談者中心療法とも呼ばれる。これは、人間は「良き者」という前提に立ち、ただひたすら相手の話を聞き、感情の受容を試みる。苦しみを訴える人たちが、自らの「不完全」さを受け入れられるよう、彼らを受容するのである。そこでは、「罪を悔い改めよ」はまったくない。

このヒューマニスティック・アプローチは、まさしくイエスがされたアプローチのコピーにほかならない。イエスは罪を裁くこともなく赦し、そのことで彼らの気持ちを受容された。カウンセラーは、こうしたイエスのやり方を上手くまねているのであって、本来であれば私たちがすべきアプローチである。

ところが私たちは、「罪を悔い改めよ」という誤ったアプローチをしてしまった。私たちはいまだに善か悪かを選択できる「自由意志」が人にはあると思い込み、罪を道徳に対する違反、すなわち不法行為として理解し、「罪を悔い改めよ」と叫んでしまった。あくまでも罪を表面的な悪の行為、「複数」として捉えたのである。

だが、罪は「死のとげ」であって「単数」となる。個人の問題ではなく、構造的な問題となる。そのことをパウロは神から教えられたので、罪のほとんどを「単数」で説明した。残念ながら、聖書は罪を「単数」として教えているにもかかわらず、私たちはその真理に気付かなかった。この真理に気付かせてくれたのは実存主義の哲学者であり、心理学者であった。そして、罪を「単数」として扱った彼らは、罪の苦しみから解放するカウンセリングを築き上げ、それなりの成果を上げている。だとしても、カウンセラーにできるのは対症療法であって、根本治療ではない。ならば、根本治療とは何かを考えてみよう。

(3)根本治療

人の罪は、人に入り込んだ「死」によって引き起こされている。悪魔の仕業によって最初に罪が人の中に入り込み、入り込んだ罪に伴い神との結びつきを失う「死」がすべての人に入り込み、その結果、人は罪を犯すようになった。

「それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった」(ローマ5:12 私訳) 参照:福音の回復(34)

神との結びつきを失ってしまう「死」が入り込んだことで、人は「神の愛が見えない不安」を抱くようになった。その「不安」から見えるもので安心を得ようとする「肉の思い」が誕生し、これが人の「罪」となった。まさしく、人の罪は「死のとげ」である。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。ゆえに、根本治療は「死」を滅ぼし、神との結びつきを回復し、「神の愛が見えない不安」を取り除くしかない。

そこでキリストは十字架に架かり、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、神との関係が回復できる恵みを備えられた。「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル2:14 新改訳2017)。同時に、十字架に架かることで、私たちが罪人であっても無条件で愛していることを明らかにされた(参照:福音の回復(49))。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)

だからあとは、神との関係が回復する恵みにあずかり、そして無条件で愛するという「全き愛」を感謝して受け取ればよい。どう受け取るかというと、自分の罪を言い表し、それでも罪を赦し愛すると言われる神の言葉を信じるのである。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

罪が無条件で赦されるという「全き愛」を受け取ることで、「不安」という「恐れ」が締め出され、罪は癒やされていく。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)。そうしたことから、神は「罪を悔い改めよ」とは決して言わない。神が言われるのは、常にこうである。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

この神の呼び掛けに応答するなら、すなわち重荷となっている罪を言い表すなら、罪が赦される「全き愛」を受け取ることができる。誰であれ、無条件で受け入られる神の愛を知ることができ、罪は癒やされていく。このことは、「放蕩息子の譬(たと)え」を見るとよく分かる。放蕩を繰り返した息子は父親のもとに帰り、罪を言い表した。すると父親は、罪を重ねた放蕩息子に対して「罪を悔い改めよ」とは言わず、ただ抱きしめ、無条件で愛していることを伝えた。そのことで、「神の愛が見えない不安」は締め出され、罪という病気は癒やされた。

このように、根本治療にはキリストが十字架で示された「全き愛」が不可欠となる。その「全き愛」を伝えられるのは、この世のカウンセラーではない。それはクリスチャンである。従って、本来であればクリスチャンが罪に対する対症療法を行い、さらには根本治療にまで誘導する責務を担う。

ところが私たちは、人々に対して「罪を悔い改めよ」と言ってしまい、対症療法の機会も、根本治療の機会も手放してしまった。その結果、人々はカウンセラーの所に行き、教会には足を運ばなくなった。まさに悲劇である。では、罪の治療にまつわる話をさらに続けよう。

(4)病気ゆえに治療が必要

「罪」は神との結びつきを失う「死」が原因で生じた以上、それは神にしか癒やせない「病気」という扱いになる。従って、神だけが根本治療を行うことができる。ということは、神の治療を受けずに罪を放置すればどうなるだろう。いくら罪は「病気」だから神に裁かれないとはいえ、罪は「病気」ゆえに放置すれば悪化し、人を苦しめることになる。神の治療を拒み、罪を犯し続けるのであれば、それは「病気」ゆえに被害が拡大する。そして、ついには手遅れとなる。だから聖書は、次のように警告する。

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ6:15)

実際、神の治療を拒み、手遅れになった人がいる。それは、イエスを裏切ったユダである。彼は自分が犯した罪を責め、自らに「罪を悔い改めよ」と叫んだ。罪が神にしか癒やせない病気だとは知らず、自らの手で何とかしようとした。そして、自らの命を断った(マタイ27:3~5)。これこそが、神の治療を拒み、罪という病気を放置することが招く最大の悲劇にほかならない。

逆に、神の治療を受け、手遅れにならなかった人がいる。それは、ユダと同じようにイエスを裏切ったペテロだ。ペテロは、十字架刑に処されるイエスを知らないと言って裏切った。そのことでいったんは自らの罪を責めるも、彼は神の治療を受けるという選択をし、神に立ち返った。それでペテロは、イエスから罪を責められるのではなく、逆に全幅の信頼、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)という治療を受けることができた。あの放蕩息子と同様に、それでも愛するという神の愛を受け取ることができたのである。そのことで罪が癒やされ、神と人を愛する者に変わった。

このように、罪は「病気」ゆえに治療が必要になる。放置すると、とんでもないことになる。だから、罪人である私たちは神に立ち返り、神の治療を受けなければならない。それは、罪人であっても愛するという神の「全き愛」を、そのまま受け取ることを意味する。神に愛されているという自分を知り、その自分を受容することが治療になる。罪人であっても神が肯定してくれるという自分を受け入れ、自分自身を肯定することが罪を癒やす根本治療なのである。

ところが、私たちは人々に「罪を悔い改めよ」と叫んでしまい、神の治療を受けさせなくしてしまう。こうした誤りは、ひとえに「罪」に対する誤解から生じる。そこで最後に、「罪」に対する誤解を解く話をしたい。

(5)誤解を解く

イエスは、人々が神の福音を正しく理解できない原因が「罪」に対する誤解に起因することを誰よりも分かっておられた。そこでイエスは、御霊なる神が来られると、「罪」に対する誤解を訂正されると言われた。それに伴い、義についても裁きについても、人の誤解が訂正されると言われた。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)

そしてイエスは、人の「罪」とは、イエスを信じないことを指すと言われた。

「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)

イエスは、人がイエスを信じないこと、それが「罪」だと言われた。神であるイエスを信じられないのは、神との結びつきがないからであって、そうした状態を「死」という。つまり、人の罪は「死」の状態を指すのであり、それは「単数」である。一般に罪というと、道徳に対するもろもろの違反行為を連想し「複数」として捉えるが、それは罪から育った実であり、罪そのものではない。

イエスが言われた、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」から、そこまで読み取ることができれば、罪は人の本性から出たものではなく、それは「病気」だと容易に分かる。分かれば、罪に対する裁きは人に対してではなく、その「死」を持ち込んだ、この世の君(悪魔)に対してということも分かる。イエスはそのことを教えるため、続けてこう話された。

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」(ヨハネ16:11)

このように、人の罪は悪魔によって持ち込まれた「死」に原因がある。まさしく罪は「病気」である。しかし、人はそのことを知らなかったので、イエスは罪に対する人の誤解を解くと言われたのであった。いずれにせよ、人がどう思おうとも人の罪は「病気」という扱いになるので、人の罪は神に贖われ、癒やされるべき対象となる。そこでキリストは十字架に架かられ、その打ち傷で、人の罪を癒やそうとされた。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)

そうであるから、聖書のどこにも「罪を悔い改めよ」という教えはない。あるのは一貫して、「神に立ち返りなさい」である。わたしが罪という重荷を下ろさせてあげるから、わたしのもとに来なさいである。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

私たちは、今一度イエスが言われたこの言葉の意味を正しく受け止め、罪に対する誤解を解く必要がある。そうしないと、神の福音は迷走してしまう。本来であれば義人が排除され、罪人が受け入れられるはずの福音を、「罪を悔い改めよ」と説くことで、頑張って義人になった者が受け入れられる福音にしてしまう。頑張った者が神から賞を受けられるという、歪んだ福音にしてしまう。神の福音は、あくまでも「不完全」な者が受け入れられる福音である。ゆえに聖書は、「罪を悔い改めよ」とは教えない。ただ、「神に立ち返りなさい」と教える。

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三谷和司

三谷和司(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美は全て著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

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