神さまが共におられる神秘(45)主の栄光の前に頭を下げる 稲川圭三

2018年1月7日06時36分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2015年1月4日 主の公現
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
私たちは東方から王を拝みに来た
マタイ2章1~12節

入祭のあいさつ

新しい年に入り、最初の日曜日を迎えています。今日は「主の公現」の祭日です。「公に現れる」と書いて「公現」です。主である神さまの栄光が現れたことをお祝いする日です。

幼子が生まれたのは、私たちの中に神さまが共におられる真実に私たちを出会わせるためです。その栄光の前に私たちが膝(ひざ)をかがめ、礼拝し、その真実をたたえて生きる者になりますように。そして、私たちの1年の歩みが、すべての人と共におられる神さまの栄光をたたえて生きる年になりますように、ご一緒にその祝福をお祈りしましょう。

説 教

今日、新しい年の最初の日曜日を、日本の教会は「主の公現」としてお祝いしますが、もともと「主の公現」は、クリスマスと同じように日付の定まっている祝日で、1月6日です。クリスマスが毎年、曜日が違っても12月25日であるように、全世界の教会では、毎年1月6日を「主の公現」としてお祝いしています。日本では「主の公現」を日曜日にお祝いするため、1月2日から8日までの間の日曜日と決めて、日付を移動させて日曜日に祝うようにしています。

「公現」と訳されているもともとの言葉は、ラテン語で「エピファニア」です。「エピファニア」とは「顕現」「公に現れる」という意味です。主の栄光が公に現れる日としてお祝いされています。

12月25日のクリスマスも神の栄光の現れをお祝いする日です。そして1月6日も神の栄光が現されたことのお祝い。同じ意味のお祝い日が2つあることになります。それは歴史的な経緯によります。

コンスタンチノープルを中心に発展した「東方教会」ではエジプトの暦を使っていました。その暦によると1月6日が冬至、つまり1年で一番昼の短い日でした。その日から日が長くなっていくことから、1月6日が「太陽の誕生日」とされました。やがてキリスト教が広がっていくにつれ、その「太陽の誕生日」を、世の光であるキリストの栄光の現れの日と考えて祝うようになったのです。

一方、ローマを中心とする「西方教会」では、ユリウス暦を使っていました。その暦では、12月25日が冬至でした。その日を境に日が少しずつ長くなっていくことから、その日は「太陽神の誕生日」として祝われました。それが、4世紀初めにキリスト教が公認され、その後、ローマの国教にされていくに及んで、12月25日は「世の光」「正義の太陽」であるキリストの誕生日としてお祝いするようになりました。

東方教会では1月6日をエピファニア、栄光の現れの祭日としてお祝いしましたが、そこでは、「キリストの誕生」、今日の福音で読まれた、「三王来朝」(占星術の学者がイエスを訪ねてくる出来事)、「イエスの洗礼」、「カナの婚礼」などが取り上げられて祝われました。

4世紀、5世紀と時代が下るにしたがって、西の教会・ローマの教会も、東の教会の1月6日の「公現祭」をお祝いするようになりました。また、東の教会も西の教会・ローマの教会の12月25日の「クリスマス」をお祝いするようになり、お互いが両方を祝うようになったのです。

でも、お祝いすることの中身、本質は一緒です。そこに「主の栄光が現された」ことを祝うという意味で1つです。

そういうことから、主の降誕(クリスマス)から公現祭までを「降誕節」、クリスマス・シーズンとするという典礼上の季節が形成されました。ちなみに日本の教会は、その次の週の「主の洗礼」までを「降誕節」としてお祝いするように定めています。

さて、今日の福音は、幼子イエスの誕生という出来事の中に「主の栄光の現れ」を見て、東方の異邦人である学者が遠くからイエスのもとを訪れ、ひれ伏して礼拝し、贈り物を献(ささ)げたという出来事でした。

私たちは普通、「栄光」と言うと、みんなから評価してもらう、ほめたたえてもらい、外からスポットライトを当ててもらうようなイメージがあるかもしれません。しかし、旧約聖書のヘブライ語で「栄光」と訳されているのは「カボード」という言葉で、そのもともとの意味は「重さ」です。外から付与してもらうような賞賛や賛美ではなく、存在そのものの持つ重さを「カボード」「栄光」と言います。それが現されたというのが、今日の「主の公現」の中心的な内容です。

主である方の栄光をまず異邦人たちは「自然現象の観察」を通して知らされました。しかしそれだけでは、主である方のもとにたどり着くことができません。そこで、聖書・神の言葉を通して、向かうべきところがベツレヘムであることが示され、そこで出会わせていただくことになりました。

一方、ユダヤ人たちは、聖書の言葉を知っていたにもかかわらず、幼子のところに行ってひれ伏して礼拝するという、栄光との出会いにあずかれなかった。これが今日の福音のはっきりとしたメッセージです。そして今日、まったく同じメッセージが私たちに語られています。

栄光の重さとは、すべての人間の中に「主である神さまが共にいてくださる」という存在の重さです。その重さは、目に見えない光の重さであって、ひれ伏して礼拝し、祈ることを通して初めて出会わせていただく重さなのです。

イエスさまがお生まれになったのは、私たち人間の中に「神さまが共におられる」という神の存在の重さがあることを現し、それに出会わせるためです。

私たちの中には、1人の例外もなく、「神さまが共におられる」という存在の重さがあります。でもそれは、誰の目にも明らかな、目に見える光としての栄光ではなく、ひれ伏して礼拝し、祈ることを通して初めて出会わせていただく重さとしての栄光です。

聖書を知っていただけのユダヤ人、律法学者、祭司長、そしてヘロデは、幼子の前に進み出てひれ伏し、礼拝するという、その栄光の重さにあずかることができませんでした。私たちも一緒です。私たちは「主が共におられる」という神の言葉を聞かされています。その真実の重さに私たちはひれ伏して礼拝することを通して出会わせていただかなければならないのです。

「神さまの栄光はどこに」と問われれば、すぐ隣にいる方の中に、すぐ目の前にいる方の中に、おなかの中にいるお子さんの中に主の栄光はあります。その目に見えない存在の重さは、祈りを通し、礼拝を通して出会わせていただく栄光です。

私たちは祈ればいいのです。いや、祈らなければならないのです。自分の周りにいる人に、「神さまが共におられる」という栄光の重さがあります。だから、「神さまがあなたと共におられます」と祈らなければならないのです。その礼拝を通して、神さまの栄光という重さに出会わせていただくのです。そして、出会わせていただかなければならないのです。

今日、私たちがこの公現の祭日の意味を本当に確かなものとさせていただくために、祈りが必要です。目の前の人に「神さまがあなたと共におられます」と、私たちの理解を超えて共にいてくださるお方に頭を下げて祈ることができますように。「神さまがあなたと共におられる」という真実の前に礼拝をささげることができますように。そして、この1年が祝福に満ちたものになるよう、共にお祈りしたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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