脳性麻痺と共に生きる(42)修学旅行準備会 有田憲一郎

2017年12月31日18時28分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷
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高等部になり、足の激痛に耐えきれずまともに学校に通えなかった僕は、部屋の時計に目がいくたびに「今何時間目で、〇〇の授業か」と授業の光景を思い浮かべていました。布団の中でテレビを見ながら、「僕はいったい、何をしているんだ」と思う自分がいました。休みたくて休んでいるわけではないにもかかわらず、心の中でズル休みをしているようなむなしさを感じ、切ない気持ちになっていました。

休む日が続き、長期になればなるほど学校に行けないいら立ちが募り、また同級生や先生、周囲から置いていかれてしまう気がしていました。

毎年5月ごろ、2泊から3泊の生活訓練が行われます。足の激痛と戦いながらも、楽しみにしている生活訓練には「何とかして行きたい」という思いが強くありました。「日帰りでも1泊でもいいから、行けそうだったら行こう」と先生や同級生に励まされ、両親は「途中からでも調子次第で行けるようだったら送っていくし、途中でダメそうだったら迎えに行くから。行けそうだったら、行っておいで」と言ってくれました。埼玉県の飯能で行われていた生活訓練に、父は僕が「行く」と言ったら、朝でも夜でも関係なく、すぐにでも連れていけるよう準備をしていたそうです。

そんな思いとは裏腹に、足の痛みに耐えることで精いっぱいの僕は、1年生と2年生の生活訓練に参加することができませんでした。同級生が生活訓練に行っている間、行けない悔しさと寂しさがありました。布団の中で「今頃、何をしているのかな。楽しんでいるんだろうな」と思いを巡らせていました。

生活訓練が終わった数日後、学校に行くと「残念だったね。一緒に行きたかったね」と同級生や先生が声を掛けてくれました。そして「行けなかったから」と、お土産を買ってきてくれました。

その頃は、学校に行きたい思いはあっても、その日になってみないと痛み次第で行けるかどうかも分からない状況でした。そんな中、「〇〇日に生活訓練の反省会と報告会をするから、来てね」と言われました。休みがちになっていた僕にとって、その言葉は大きな励ましに聞こえました。

「報告会は行けるように頑張ろう」と僕は毎日、布団の中で「報告会の日は、何がなんでも行く」と願っていました。そして報告会の当日、いつものように「おはよう」と父は僕の体をマッサージしながら、「痛みはどう? 今日は学校どうする?」と聞いてくれました。体の硬直や緊張をほぐすようにマッサージをしてもらいながら、「今日は、生活訓練の報告会がある日でしょう。だから、無理をしてでも行きたいんだ」と言いました。

すると父は「頑張って行かないとね」と学校に行く準備をし、「父さんもPTAの役員会で学校に行くから、足とか体とかつらいときは一緒に帰ってこよう」と言ってくれました。この言葉に僕は安心しつつも、「また、今日も父さん学校に行くの? 何だか嫌な感じ」と少し憂鬱(ゆううつ)な気持ちにもなっていました。

「有田。来れてよかった」と先生に言われ、参加できなかった生活訓練の報告と反省会を、僕は静かに聞いていました。楽しそうに話す同級生の言葉に耳を傾けていると、その光景が浮かんでくると同時に、「行きたかった」という思いが強くなっていきました。

2年生の生活訓練が終わると先生が、「修学旅行は行けるといいな。一緒に行けるように頑張ろうな」と励ましてくれ、修学旅行に行くということが僕にとって大きな目標になっていきました。

以前に少しだけ書きましたが、修学旅行と聞くと京都や奈良をイメージします。僕も修学旅行で訪れたい場所の1つでしたが、僕の通っていた学校では、修学旅行といえば宮城県の仙台に行くことが多く、僕たちの修学旅行も仙台になりました。

高等部2年の3学期からホームルームを使い、3年生の5月に行われる修学旅行の準備が始まりました。「修学旅行は、仙台と松島と作並温泉に行きます。訪れる場所について、みんなで分担して調べましょう」と先生は言います。自分が調べたい場所を選んで、その土地や観光地のことなどを調べ、それぞれが準備会で発表することになりました。

「どこに行きたいか」と希望を聞かれたとき、「温泉に行きたい」と言っていた僕は、「有田は作並温泉のことを調べるだろう」と思われていました。しかし僕は「松島のことを調べます」と言い、松島を調べることにしました。

今のようにインターネットが普及しておらず、簡単に調べることはできません。好きな地図を開き、ガイドマップなどを買い、また先生が下見に行ったときにもらってきてくれたパンフレットや資料などを見て調べ、ワープロでまとめていきました。

当時の僕は、ほとんど漢字が読めないでいました。地図は読めたものの、ガイドマップやパンフレットに書かれている内容が読めず、「これ、何て読むの?」と両親に聞いては、「〇〇だよ。覚えなさい」と言われながらワープロに打ち込み、まとめていきました。

「よし、これで完璧だ」と珍しく自信ありげに、書いた資料を学校に持っていき、準備会で発表する日、同級生の発表を聞きながら自分の発表するのを待っていました。同級生たちが自分で調べてきた内容をスラスラと発表していく中、「次は有田君」と僕の番がきました。

自分が書いた資料を見ながら発表を始めると、そこに1つの落とし穴が待っていたのです。それは、自分でまとめて書いた資料が読めないということでした。

調べていくとき、読めない漢字の読み方を両親に教わりながらワープロに打ち、まとめていたのですが、僕は数時間後、あるいは数日後には、その漢字の読み方を忘れてしまい、思い出せなくなっていたのです。

自分でまとめた内容を読めばいいことなのですが、自分で書いた漢字が読めなかったのです。そして読める漢字でも、例えば宝物館(ほうもつかん)と読むべきところを「たからものかん」と自信ありげに読んでいたのです。

ワープロの前では多少読める漢字でも、ワープロから離れ、また時間がたつと読めなくなってしまう僕がいました。勉強嫌いな上、漢字を覚える気がなかったのでしょう。

僕の発表は滅茶苦茶で、自分で調べて書いた資料が全然読めない、読み間違えも多い、伝えたい内容も思うように伝えられない散々な発表しかできませんでした。先生や同級生から「本当に自分で調べたのか!」と指摘され、「ちゃんと調べなさい」「自分の言葉で伝えなさい」と注意されながら、同じ箇所を何度も調べ直し、書き直しました。

同級生はしっかり調べてきて、1回の発表で「完璧だ」と評価されていく中で、僕は同じ箇所を繰り返し発表していました。こうして僕は最後まで、自分で書いた資料を完璧に読み上げることもできませんでしたが、同級生が手分けして調べ、しおりにまとめました。

僕の発表は完璧とは程遠いものでしたが、調べることで「どういう場所だろう?」と想像してイメージを膨らませ、修学旅行の日が待ち遠しくなっていました。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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