【論説】クリスマスの意義 阿久戸光晴

2017年12月30日06時41分 コラムニスト : 阿久戸光晴 印刷
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女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。(ヨハネ16:21~23)

キリスト教会の新年はアドヴェントから始まります。アドヴェント、それは一見、主イエス・キリストがこの地上からご不在に見える時です。主イエス・キリストは十字架のご受難とよみがえりの後、天へ昇られる際、弟子たちに「私は再び来る」と言われ、私たちも「マラナ・タ(=主イエスよ、来たりませ)」と言いつつ(1コリント16:22など)、主の来臨の備えをします。これがアドヴェントの意味です。

さらに、アドヴェントは私たち人間に問いかけています。「主はどこから顕(あらわ)れるのか」と。それは、マリアと同じ一般の私たちから「生まれる」という仕方で顕れるのです。主は私たち信仰者において顕れられます。「こんな私にですか」と思われる方は多いことでしょう。しかし、乙女マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と申しました。それゆえ、私たちも同じことを申しましょう。「お言葉どおりこの身に成りますように」“Let it be with me according to your word.”(ちなみに、分裂の危機にあったビートルズの「レット・イット・ビー」の本当の歌詞の意味です)と。また、それこそクリスマスの意味です。

ヨハネ福音書は申します。「女は子供を産むとき、苦しむものだ」(16:21)と。マリアも、主を産む直前は大いに不安を感じたことでしょう。そして事実、激しい陣痛がやって来ます。「産みの苦しみ」です。でも、これは象徴的なたとえです。神が私たちに新しい使命を果たさせようとされる時、主の御手のうちに落ちるのは、大きな陣痛を伴うものです。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」(ヘブライ10:31)とあるように。

しかしヨハネ福音書の聖句は続きます。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(16:21)と。御子が生まれた暁には、もはや「産みの苦しみ」は覚えられず、「生まれた喜び」だけが残るのです。

ところで私たちは、主との再会を、「私たち」が主語として目的の方である主と会うことだと考えているとしたら、聖書的ではありません。聖書は「わたし(=主イエス・キリスト)は再びあなたがたと会う」ことを約束されているからです。

ローマ書は申します。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(8:22)。しかし、苦しんでいるのは被造物だけではありません。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と。

私たち以上に、“霊”すなわち聖霊が率先して私たちを真の神の子にしようと「うめくように苦しんでおられ」、「産みの苦しみ」をしておられるのです。そして、そのことが1人でも成就した時、天で大いなる喜び「大いなる産みの喜び」があるのです。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)と。

主が私たちと再会される約束を、大いなる喜びをもって果たされるのです。その時まさに私たち人間の心は喜びで満たされます。私たちが苦労して主を見いだすのでなく、主が私たちを見つけてくださり、再会してくださることほど、私たちにとって大きな喜びはないでしょう。

主は続けられます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」(ヨハネ16:23)と。なぜでしょうか。私たちは主を見いだせない間は、「なぜ私だけが」とか「なぜこんなひどいことがあるのでしょうか」と叫んでしまいます。

以前、アメリカで知り合ったユダヤ教のラビは祈りました。「神よ、私たちユダヤ人たちはあなたを忘れ、おのが道を進みましたが、それでも600万人以上もの大勢の同朋がアウシュビッツなどで虐殺されるに値するものであったでしょうか。いつの日かあなたとお会いした時に、あなたご自身から教えてください」と。ユダヤ人の多くは今も自ら神と再会すべく神を探し求めています。

しかし、聖書のヨブは違いました。神がつむじ風の中からお姿を顕され、ヨブに会い、語りかけられたのです。もはやヨブの口から「神義論」らしき話は消え、ただ悔い改めと神賛美のみが出たのでした。

私たちにとっても、人生における究極の願いは、「神ご自身に呼ばれること」であり、「神を知ること」です。その時、私たちは「生きる意味」を知るのです。問う必要はもはやありません。クリスマスイブの際の、東からの博士たちも、羊飼いも、幼子にはもちろん、その家族にも一切問いかけなどしておりません。ただ博士たちは「宝」を、羊飼いらは「賛美」をささげました。そして、「空」になったはずの彼らに与えられたのは「大いなる喜び」でした。主が私たちに再会してくださること、そして私たちがもはや問うことがないほど喜びで満たされること、これこそ最大の「良き知らせ」です。

今年も終わろうとしており、新しい教会暦が始まりました。本紙に対する言われなき迫害がいまだに続けられています。一心不乱に「良き知らせ」を見いだし、世の人々に喜びを知らせ、分かち合おうとしている記者たちに対する心ない取材拒否の数々。裁判で勝訴の事実をお伝えしても、何を申し上げても、本紙に対して「レッテル貼り」をする事実。それが、若く誠実に取り組んでいる記者たちをどれほど傷つけているかを無視する心ない仕打ちの数々。

私はこの場をお借りして何度でも世に申し上げます。

「本紙は一部の宗教団体とは何ら関係ありません。純粋に福音信仰に立つ関係者によって、祈りつつ、フェアに同業紙と切磋琢磨(せっさたくま)し合いたいキリスト教紙です」

私は篤実の記者たちに申しております。「相手にするのはやめなさい。神は生きておられるから。また、この世の闇の側に立とうとする人々のためにも祈りましょう。神が彼らをかたくなにしておられるから。そして、これはやがて必ず『産みの喜び』になる『産みの苦しみ』です。まさにアドヴェント、クリスマスにふさわしい歩みを皆さんはしておられるのです」と。

読者の皆さんへの神の御祝福が豊かにありますように。

阿久戸光晴

阿久戸光晴(あくど・みつはる)

一橋大学社会学部卒業・法学部卒業。東京神学大学大学院博士課程前期修了。神学修士。ジョージア大学法学部大学院等で学んだのち、聖学院大学教授。同大学長を経て、2017年3月まで学校法人聖学院理事長・院長兼務。専門はキリスト教社会倫理学。日本基督教団滝野川教会牧師、東京池袋教会名誉牧師。荒川区民として区行政にも活躍。説教集『新しき生』『近代デモクラシー思想の根源―「人権の淵源」と「教会と国家の関係」の歴史的考察―』『専制と偏狭を永遠に除去するために』ほか著書多数。

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