神さまが共におられる神秘(39)信仰を持って、イエスさまの眼差しで生きる 稲川圭三

2017年12月3日06時44分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年11月30日 待降節第1主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
目をさましていなさい
マルコ13章33~37節

説 教

今日は待降節第1主日を迎えています。教会の新しい1年の始まりになります。今年はB年で、主にマルコの福音が読まれます(カトリックでは3年周期で、A年にはマタイ、B年にはマルコ、C年にはルカから章を追って主要箇所が朗読され、ヨハネは主に復活節に読まれる)。待降節は、主キリストの降誕を待ち望む時、季節です。

1年の始まりに読まれた福音は、「目を覚ましていなさい」というメッセージです。昨日の土曜日が教会の暦の1年の1番最後の日になるわけですが、その福音も「目を覚ましていなさい」というメッセージでした(ルカ21:36)。イエスさまの教えは「目を覚ましていなさい」に始まって、「目を覚ましていなさい」に終わっていると言ってもよいと思います。

今日読まれた短い4節の中に「目を覚ましていなさい」という言葉が4回繰り返されました(マルコ13:33、34、35、37)。小学校の作文だと、同じ言葉を繰り返すと、先生が「2回目は違う言葉で置き換えなさい」とか「ここは代名詞にしなさい」とかチェックされたりするのですけれども、聖書はお構いなしです。同じ言葉を繰り返し使います。そして、繰り返される言葉は例外なく、その箇所で最も大切な内容です。今日の箇所も4回言われました。

もう一度確認してみましょう。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい

短い中に4回繰り返されました。今日の福音の箇所の中で、間違いなく最も重要なメッセージです。

今日はこの「目を覚ましていなさい」というイエスさまの言葉が何を表しているのかを少しご一緒に考えてみたい、受け取らせていただきたいと思います。

「目を覚ましていなさい」とはどういうことか。その反対の意味の言葉が「眠っている」です。

「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」(36節)

「眠っている」の反対が「目を覚ましている」であると指摘したところで、ほとんど私たちには意味の深まりはないかもしれません。

「目を覚ましている」とはどういうことなのか。それはイエスさまが言っておられるので、まずイエスさまご自身が目を覚ましている方だと言うことができます。イエスさまは、口で人に言って、自分はしないという方ではなく、自分がまずそのことをなさっている方だからです。そういうわけで、「目を覚ましている」とはイエスさまのことだと考えて間違いがありません。「目を覚ましている」とはイエスさまのことです。

ところで、ちょっと意地悪なようですが、そのイエスさまが眠っている箇所があります。聖書の中のどんな場面か、ご記憶にありますか。イエスさまが眠っている箇所です。どうでしょうか、皆様。お分かりになりますか。Tさん、分かる?どこ?(会衆席からTさんが答えると)ありがとうございます。その通りですね。正解です。嵐の湖の上の出来事でした。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。(マルコ4:35~39)

するとイエスは言われたのです。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)

イエスさまは舟の中で「眠っておられた」のです。でも、「目覚めておられた」と言うことができます。一方、弟子たちは「目を覚ましていた」けれども、「眠っていた」。禅問答みたいな話になってしまっていますが、その意味を、次のイエスさまの言葉が教えてくれています。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

「目を覚ましている」とは、「信じている」ということだと言ってよいと思います。「まだ信じないのか」という言葉は、「まだ信仰を持たないのか」という意味の言葉です。

イエスさまは「目覚めて」信仰を持っていました。舟の中で眠っていたけれども、信仰につながっておられました。

イエスさまが持っていた信仰とは何でしょうか。神さまがご自分と共におられ、ご自分も神さまと共におられるという、その神さまとの出会いを持っておられたのです。

今日の福音の箇所の真ん中に、短いたとえ話がありました。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)

「家を後に旅に出る人」とは誰でしょうか。それはイエスさまです。イエスさまは死と復活を通して天に上げられました。「家を後に旅に出る人」とはイエスさまのことです。

その時に「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」とは何でしょうか。それは、私たちに聖霊を注いで、イエス・キリストのいのちを私たち一人一人に持たせているということです。それが「仕事を割り当てて責任を持たせ」の意味です。

2週間前に読まれたタラントンのたとえ話(マタイ25:14~30)を思い出します。私たちにとって「目を覚ましている」とは「信仰を持っている」ことです。「信仰を持っている」とは「イエス・キリストを持っている」ことです。イエス・キリストは私たちの中に、一人一人と同じ向きで立って生きてくださる方だと私は理解しています。そのいのちを持って、穴の中に仕舞(しま)っておくだけではなく、使って生きる。すなわち、イエス・キリストが出会う人の中に神を見いだしたその眼差しを使って、私たちも出会う人の中に神のいのちを見いだして生きる。それが「目を覚ましている」ということの意味です。

「気をつけて」と訳されている言葉は「見る」という言葉です。イエスさまはいつも相手の人の中に神のいのちを見ました。だから私たちも、「気をつけて、目を覚ましているように」、「私たちの中にイエス・キリストを持つように」、「イエス・キリストを持って、穴の中に埋めておくのではなく、そのいのちを使って生きるように」と呼び掛けられています。私たちが起きていても眠っていても「目を覚まして」、共にいてくださるイエス・キリストを持って生きる者になりますように。その呼び掛けに応えて生きる恵みを願いたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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