神さまが共におられる神秘(38)人に良いわざを行うという祝福 稲川圭三

2017年11月26日06時53分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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王であるキリスト
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
人の子はその栄光の座に着く。そして、すべての国の民をより分ける
マタイ25章31~46節

入祭のあいさつ

今日は「王であるキリスト」の祭日を迎えています。来週から待降節第1主日という教会の暦の新しい1年が始まります。ですから、今日は教会の暦では1年の最後の日曜日になります。

この祭日は、私たちが「終わり」ということを考える時です。私たちはこの世において必ず終わりの時を迎えます。しかし、教会の信仰の中では、この世の命の終わりとは、新しいいのちの始まりです。

今日も神さまが一緒にいてくださることを受け取らせていただき、人の幸いのために生きていくことができますよう、一緒に恵みと力を願いましょう。

説 教

今日の福音は、「世の終わり」というすべての終わりの時に、神さまが救いと裁きを完成するためにこのようになさるということが書かれています。

現代社会を生きている私たちにとって、「世の終わり」とは、そんなに切迫したものではないかもしれません。私たちが生きている間に「世の終わり」が来るのか、もっと先のことなのか、あまりピンとこないかもしれません。

しかし、よりはっきりと、より切実に受け取らせていただく「世の終わり」があります。それは、自分の命の終わりの時です。その時は、すべての人にとって確実な「世の終わり」です。

今日のたとえ話についてマザー・テレサは、「私たちが死ぬ時、イエスさまにこう言われるのだ」と言っています。

「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:32~33)

右側に祝福された人たち、左側に呪われた人たちが置かれます。これを聞くと、祝福された人と呪われた人があらかじめ決められているように考えられるかもしれません。でも、それは違います。神さまはすべての人間を祝福しておられます。

旧約聖書の最初に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と書かれています。神さまがお造りになったものはすべて神に祝福されています。祝福とは、一人一人の中に神さまがご自分のいのちを注いでおられるということです。

では、どうして「祝福された人たち」と「呪われた者ども」というような言い方になるのでしょうか。

聖書の中で「祝福された者たち」という言葉には特別な意味があります。「祝福」は、ヘブライ語では「バラク」という単語が使われていて、それには2つの意味があります。その1つは「神さまが祝福を与える」という意味です。もう1つは「礼拝する」という意味があります。つまり、神さまが与えてくださった祝福に対して、人間が賛美と感謝を返すという意味です。

神さまが私たちにお与えになっているのは祝福です。私たち一人一人と一緒にいてくださるという祝福です。その祝福を祝福として受け取り、賛美と感謝を返す。そのいのちのありよう、いのちの交わりが、「わたしの父に祝福された人たち」という言葉になっているのです。

祝福はすべての人にすでにあります。1人の例外もなく、神さまが同じ向きで、私のいのちを自分のいのちとして生きてくださっていると私は理解します。だから、そのことを受け取って賛美と感謝の礼拝、祝福を返す。そのようないのちのありようを、「わたしの父に祝福された人たち」と言っているのです。

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)

神さまは、すべての人間がご自分の祝福を受け継いで一緒に生きて喜ぶ者になるために、人間にいのちをお与えになりました。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35~36節)

王が祝福された人たちにそう言うと、その人たちは答えました。

「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37~39節)

この人たちは、まるで自分でそういうことをしたと思っていないみたいです。今日、私たちが本当に知っておくべきことは、これらのことが誰のわざかということです。これはみんな神さまのわざです。

いのちあるすべてのものに食べ物を与えるのは、主である神のわざです(『典礼聖歌』18番参照)。種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない者を食べさせるのは、神のわざです(マタイ6:26参照)。そして、裸の者に着せるのも、病気を治してくださるのも、神さまです。牢に入れられて、世の友がみんな自分を捨て去ってしまった時に、労(いた)わり支えてくださるのは神さまです(「いつくしみ深き」『カトリック聖歌集』657番3節参照)。飢えている時に食べさせ、のどが渇いている時に飲ませてくださるのは神のわざです。

でも同時に、飢えている人に私たちが食べさせ、渇いている人に私たちが飲ませるなら、それは私たちを通して神がなさっているわざです。だから、もし私たちが裸の人に着せ、病気の時に人を見舞うことがあるならば、一緒にいてくださる神さまが、そして神さまと共に、そのわざをする者になるということです。

そのように神さまと一緒に良いわざをすると、死んだ後、ご褒美があるということではありません。もし今日、私たちが人に何か良いわざをすることができるならば、その良いわざそのものが神さまからのお恵みであり、ご褒美です。

「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ」という表現ですが、元々のギリシャ語ではこんなニュアンスです。

「私が飢えていた、あなたは食べさせた。
私が渇いていた、あなたは飲ませた。
私が旅をしていた、あなたは宿に入れてくれた。
私が裸であった、あなたは着せてくれた」

当たり前のことを当たり前にするという、淡々とした感じがあります。

私たちが「おなかが減った」と言っては食べさせ、「のどが渇いた」と言えば飲ませ、服を着せ、病気の時に淡々とお世話をし続けてくれたのは誰でしょうか。人によってそれぞれかもしれないけれど、お父さんやお母さんではないでしょうか。

私たちがそんなふうにしてもらったことは、してくれた人を通して神さまがしてくださったのだと思います。そして、もし私たちも飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に着せることがあるならば、神さまが私たちの中で一緒にそのわざをしてくださっているのです。そのように、神さまの祝福を受けて、人にその祝福を返す人、それを「わたしの父に祝福された人たち」と呼ばれているのではないでしょうか。

神さまは私たちと一緒にいてくださるお方です。そして、私たちに神のわざを行ってくれた両親や恩人、友人、亡くなられたすべての方々は、今私たちと共に一緒の向きで生きておられると思います。そのことに結ばれて、私たちも人に良いわざをするという祝福に入ることができますように、このごミサの中でご一緒に祈りたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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