神さまが共におられる神秘(37)イエスさまとの出会いを埋めておかず、人に伝えて 稲川圭三

2017年11月19日07時31分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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 2014年11月16日 年間第33主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
お前は少しのものに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ。
マタイ25章14~30節

入祭のあいさつ

今日は年間第33主日で、来週が「王であるキリスト」の祭日、教会の暦の1年の一番最後の日曜日になります。今日読まれる福音も、「終わり」について考えさせる箇所、「タラントンのたとえ」が選ばれています。それぞれに預けられたその出会いを生かして、その幸いを人にも告げるようにと神さまから呼びかけられています。それに応えて、その喜びに入る者となるよう祈りたいと思います。

説 教

「タラントン」のたとえに出てくる「ある人」「主人」というのはイエスさまのことです。「主人と一緒に喜んでくれ」(21、23節)という言葉は、直訳では「主人の喜びの中に入れ」という意味です。「私の喜びの中に入って、同じ向きで一緒にその喜びを生きるように」という呼びかけです。これがイエスさまの、そして神さまのお望みです。

そして、今日の話の大前提となっているのは、「神さまがすべての人と一緒にいてくださる」ということです。その真実は1人の例外もなく変わりません。すべての人がまったく同じように神のいのちの全部をいただいています。でも私たち人間は、そのことに完全には出会えないでいます。神さまのお望みは、一緒にいてくださる神さまの「喜びの中に入ること」なのに、です。

「預けられたタラントン」というのは、「神さまが一緒にいてくださる」という真実との出会いです。5タラントン、2タラントン、1タラントンと金額が違うのは、たぶんこの世において「神さまが共にいてくださる」という真実との出会いの大きさが人によって違うからです。一緒にいてくださる神さまはただお一方ですが、この世での出会いのありようは違うのです。

マザー・テレサは列車の中で直接イエスさまが現れて、「修道院を出て、最も貧しい人のところに行って働きなさい」と言われたそうです。私たちは皆、そのような出会いをしているわけではありませんが、それぞれの力に応じた出会いをいただいています。

大きい出会いをいただいた者がいいのかというと、それは関係ありません。大切なのは、どれだけ預かったかではなく、預かったものを自分がどのようにしたかです。それは、5タラントンもうけた者も、2タラントンもうけた者も、主人からのお褒めの言葉が一緒だというところから分かります。一言一句違わず、その褒め言葉は一緒です。

「忠実な良い僕(しもべ)だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(21、23節)

私たちは、一緒にいてくださる神さまとの出会いをどんなふうに受け取っているのでしょうか。私自身について言えば、直接イエスさまが現れて「ああしろ、こうしろ」と言われた経験はありません。ただ、私がいただいている出会いとは、「神さまが共におられる」という真実です。

今日のたとえで出てくる「もうけ」って何でしょうか。「神さまが一緒にいてくださる」というその出会いをいただいたら、自分の中にそれを埋めておくのではなくて、それを使って一緒に生きることではないでしょうか。そしてその結果、誰かがその真実に出会うなら、それが「もうけ」ではないかと思います。

「預かったタラントン」とは、「一緒にいてくださるイエスさまとの出会い」と言ってよいと思います。聖霊といういのちとの交わりをいただいて、私たち一人一人は「イエスさまとの出会い」を預かっています。その出会いを埋めておかないで、「一緒に生きるように」と呼びかけられているのです。

イエスさまは、出会う人の中に「インマヌエル」(神さまが共にいてくださる)という目に見えない神秘を見出してくださった方だから、そのいのちを使って「商売をする」というのは、出会う人にイエスさまの業(わざ)、つまり「神さまがあなたと共におられます」と祈ればいいのではないかと私は思います。

ミサの中で司祭が、「みな、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体」と言います。イエス・キリストは「私たちに渡されるための体」です。それは、私たちが預かって、土の中に埋めておくために渡される体ではありません。いただいて、私たちの中で一緒の向きで生きるために渡される体です。いただいて後生大事に土の中に埋めておくのは、それは預かり方の間違いです。いただいたならば、そのいのちの向きで一緒に生きるのです。それを忘れてはいけないと思います。

1タラントン預かった人は、その預かったものを恐れました。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」(24~25節)。この人は、預かったタラントンを1回も自分のものとして「持っていない」のではないでしょうか。

一緒の向きでいてくださるイエスさまのいのちを、「どう生きるも、おまえの思いどおりにしなさい」と委ねられています。ご自分のいのちをすっかり私たちに委ねておられるのだから、私たちが蒔(ま)いて実りになれば、それはご自分の実りです。また、私たちが散らしてしまうこともありますが、それもご自分のものとして集めてくださるお方なのです。

このお方と一緒に生きることは、いいですよ。とても幸いなことです。なぜなら、自分の中に欠点や嫌な面がたくさんあるのを、全部そのままに「よし」として、一緒にいてくださるからです。私たちには取りこぼしだってあるでしょう。でも、「よし」として一緒にいてくださっているのです。

だから、そのいのちを感謝して生きるならば、出会う人の中にいろんな欠点があったって、相手が嫌なことを言ってきたって、相手に傷つけられるようなことを言われたって、その人の中に「神さまが共におられる」と認めて生きる。それが、このお方と一緒に生きるということです。私たちがするべきことは、それだけだと思います。

私たちがするべきことは、「自分の欠点を完全になくさなければ」、「失敗を知られるのが恐ろしい」と、共にいてくださるお方を自分と関わりのないところに「埋めておくこと」ではありません。「蒔くも、散らすも」全部知った上で一緒にいてくださる神さま。ご自分のすべてを注いでくださっている神さま。私たちのいのちをすべてご自分のものとしておられる神さま。そういうお方のいのちと一緒に喜んで生きるように召されているのだから、「安心して生きるように」というのが神さまからの呼びかけです。

今日、私たちが預かったタラントンを土の中に埋めておかずに、喜んで出て行って、もうけを出すようにと求められています。それは、出会う人に「神さまがあなたと共におられる」と祈って、言葉で告げ、行いで表して、「あなたの中に神がおられる」ということに出会わせることです。もしそのことに気づいて生きる人があるならば、そのことが「もうけ」を得るということです。

共にいてくださるイエスさまと一緒に、出会う人の中に神さまのいのちを認めて生きる1日になりますように。ご一緒にお祈りいたしましょう。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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