神さまが共におられる神秘(36)パンだけで生きる命でないよう、いつも目を覚まして 稲川圭三

2017年11月12日06時50分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2011月11月6日 年間第32主日
(典礼歴A年に合わせ6年前の説教の再録)
花婿だ。迎えに出なさい
マタイ25章1~13節

入祭のあいさつ

今日は年間第32主日を迎えています。再来週が、教会の暦の1年の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日になります。教会の暦が終わりの時期になっています。ミサの中で読まれる福音も、私たちの「終わり」ということを考えさせてくれる箇所が選ばれています。

今日、福音の中でイエスさまは私たちに、「目を覚ましていなさい」と言われます。私たちが目を覚ましているとは、私たちのいのちが神さまに愛されている永遠のいのちであることをいつも覚えて生きることです。

イエスさまはこう言われています。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4、申命記8:3参照)

私たちは生きるためにパンを食べることが必要です。しかし、パンだけで生きる「命」ではなく、神の永遠を食べて生きる「いのち」です。それを忘れてはいけない。パンを食べるだけの命になってはならない。永遠といういのちに貫かれた者として生きなければならない。そのようにいつも「目を覚ましていなさい」と言われるのです。

説 教

今日の福音は、「十人のおとめ」のたとえと呼ばれ、有名な物語です。まず、当時の結婚式のしきたりを知っておいたらいいと思います。

婚宴は夕方か夜に始まったそうです。婚礼の客は花嫁の家にいて、花嫁と共に花婿の到着を待ちます。そこでともし火を持って花婿の到着を待っているのが、今日のたとえ話のおとめたちです。花婿が到着すると、今度は花嫁を連れて花婿の父の家に向かいます。それは、ともし火を持った友人たちを伴う行列となったということです。そして到着すると、そこで正式に宴会が始まる。こういう仕組みだったそうです。

10人のおとめのうち5人が賢く、5人が愚かだといいますが、違いは何かというと、油の予備を持っていたか、いなかったか、ここだけです。

さて、到着の遅れている花婿とは何を示しているのか。今日のたとえ話の中で「花婿」とはキリストのことを表しています。世の終わりに再び来て、すべてを完成させてくださるキリストのことです。

今日、第2朗読でパウロの手紙(1テサロニケ4:13~18)を読みましたが(カトリックのミサでは第1朗読に旧約、第2朗読に使徒の手紙、そして福音書が読まれる)、パウロは、自分が生きている間に「世の終わり」が来ると信じて生きていました。そういう考えの中で日々の厳しい迫害に耐えたのです。

当時、イエスをメシアであると信じて生きることは、見つかったら殺される可能性のある選択でした。そういう厳しい状況の中で、初代教会の人々はキリストの再臨を、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈りながら待ち望んで生きたのです。

しかし、そのあと何年してもキリストは来ない。世の終わりは来ない。本当に来るんだろうか。そのような思いから始まった弛緩と放縦の雰囲気。そういう状態のことを「眠り込んでしまった」(マタイ25:5)と表しています。

今日のメッセージは、世の終わりが来るのが遅れていて眠り込んでしまっている教会に対するメッセージです。「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)というメッセージなのです。

ところで、マタイの福音書が書かれてから2千年近くが経ちました。私たちのいま生きている教会はどうでしょうか。自分が生きている間に「世の終わり」が来そうですか。人それぞれ受け取りが違うと思うけれども、どうですか。私は、自分が生きている間に世の終わりが来るとはあんまり思っていないかな。皆さんはどうでしょうか。昨今の危機的ないろいろな状況を見ると、もしやと思うようなフシがなくもないかもしれないけれど、でも、どうかな。

いま生きている私たちの教会は「旅する教会」という自己理解があります。それは、もう「すでに」私たちのところに「神の国」が来ている、しかし、「いまだ」その完成に向けて旅をしている――そういう理解です。第2バチカン公会議の根本的な教会理解です。

そういう私たちにとって「目を覚ましていなさい」というメッセージは何でしょうか。ミサの始まりにも申し上げましたが、「目を覚ましていなさい」とは、「パンだけで生きる命になってはならない」というメッセージではないかと思うんです。

私たちは生きるためにパンを食べることが必要です。パンを食べないと、この体は死んでしまいます。しかし、パンだけ食べていれば、それで完全に生きるかというと、そうではありません。

私たちは神さまの「永遠」といういのちに支えられて生きています。そのことをいつもいつも目覚めて用意していないと、気がついた時にはパンだけで生きる命になってしまう。

1週間振り返ってみて、「あ、自分はパンだけで生きる命になっちゃってた」と、それくらいすぐに眠り込んでしまうかもしれない。「さっきまでの1時間、パンだけで生きる命だった」。それくらいあっと言う間に眠り込んでしまういのちかもしれない。

だから私たちは、パンだけで生きる命ではなく、神さまの永遠という言葉、いのちをいただき、そこにつながれて生きているいのちになるよう、「いつも目を覚ましていなさい」と言われるのです。

目を覚ましていることは、そんなに複雑なことではありません。出会う人一人一人に、永遠という神さまが共におられると見て生きるなら、その時、私たちはパンだけで生きる命ではないのです。出会う人一人一人に、「神さまがあなたと共におられます」と心の中で言うなら、その祈りは私たちを、パンだけで生きる命から、「永遠」に結ばれて生きるいのちに変えてくれます。たやすいことではないけれども、複雑なことではない。出会う相手の内に、「神さまがあなたと共におられます」と祈ったらいいのです。

たとえ話の中で、賢いおとめが「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(9節)と言いますが、これは不寛容や冷淡さを表しているのではありません。ここで言われている「油」は、分けてあげることのできないもの、自分で用意しなければならないものとしてたとえられているのです。

相手の内に神さまが共におられると認めること。これは分けてあげることができないもの、自分で用意しなければならないことです。

今日、ミサの中で、亡くなられた方のために特にお祈りをしています。亡くなられた方々は私たち一人一人のために祈ってくださっていると思うんです。「パンだけで生きる命になってはならない」と祈ってくださっていると思います。

私たちも亡くなられた方のために祈る時、パンだけで生きる命から解放されます。なぜなら、亡くなられた方々は「永遠」といういのちに結ばれて生きている方々だからです。

11月にあたって、亡くなられたすべての方々のために祈ることを通して、また、出会う生きている人一人一人に、神さまが共にいてくださることを見て祈ることを通して、私たちが目を覚まして生きるように。パンだけで生き、死んだら終わってしまう命になってしまうことがないように、一緒にこの感謝の祭儀をおささげしたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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