【論説】木の中に埋められているものを見いだすまなざし―運慶展を記念して 阿久戸光晴

2017年11月11日06時57分 コラムニスト : 阿久戸光晴 印刷
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預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。(箴言29:18、以下口語訳)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブル11:3)

上野の東京国立博物館で開かれている「運慶」展(9月26日~11月26日)を見てきました。印象的であったのは作品の素晴らしさはもとより、食い入るように作品を見る来場者のまなざしでした。私は、運慶と人々のまなざしから、夏目漱石の名作『夢十夜』にある「第六夜」のエピソードを想い起こしました。『夢十夜』は、漱石が十夜それぞれに見た夢のエピソードが語られる設定になっていて、「第六夜」では運慶が登場します。

運慶が東京の護国寺で仁王像を刻んでいるという噂(うわさ)を聞き、漱石は散歩がてら出掛けます。そこにはすでに黒山の人だかりができていました。しかし、運慶は気にもとめず、一心不乱に木を削っています。しかも、すらすらと。

漱石が思わず呟(つぶや)きます。「よくああ無造作(むぞうさ)に鑿(のみ)を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と。すると野次(やじ)馬の1人が応えます。「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と。それを聞いた漱石は心中思います。「彫刻とはそんなものか・・・。はたしてそうなら誰にでもできる事だ」と。

漱石は家へ帰って、風呂場にあった薪(まき)を片端から削ってみます。しかし、何も出てきません。そこでこの「第六夜」は次のような文で閉じられます。「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋うまっていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った」

漱石がどこまで意識していたかは分かりませんが、これはものすごい内容を秘めた小品です。物事には、現象構造に先行するイメージあるいはフォルムがあるというのです。運慶のような芸術家は、現実世界に現れている現象の奥に存在している何か(この小説ではそれが仁王像に象徴されている)を見いだしていますが、この世には見えていないというのです(鋭い現世批判を秘めています)。

これは、先ほど挙げた2つの聖句の内容に触れています。箴言が警告するのは、預言すなわち神の言葉を聴いていないか、律法という規範を心に抱いていなければ、一般人は結局、弱肉強食、「長いもの」に寄り添う「集団エゴ」(=わがまま)に陥るということです。また、ヘブル書が告げるのは、現実世界という「見えているもの」は、現象という「現れているもの」から出ているのでなく、肉眼では見えない「神の言葉=神の意志=御心」から成り立っているのを知ることが信仰だということです。

ところで、「バーチャル・リアリティー」という言葉があり、「仮想現実」と訳されていますが、これは正しい訳でしょうか。「virtual」はラテン語「virtus」の形容詞形で、「力あるもの、(すなわち)実質的に力を及ぼして存在するもの」の意です。この語がわが国で「仮想現実」と訳されたのは、「見えざるものが存在するはずがない」という先入見からとしか思えません。「バーチャル・リアリティー」は、受難劇などの演劇や、賛美歌などの音楽、イコンはもとより、聖餐式もしかり。そして、神の言葉こそ「実質的には存在するもの」です。

現実は「成るように成る」のではありませんし、そうあってはなりません。「長いものに巻かれる」ように現実を受け止めることは、「長いものに身を任せる」方向に加担することにほかなりません。現実は、神の言葉という明確な目的・意志のとおりに「成っていくべきもの」であり、そう「成っていく」方向を見据える澄みきったまなざしが私たちには必要です。

今回の運慶展を食い入るように見つめる人々を見て、人々の心の奥底にある「待望と願い」を私は感じました。

そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。(サムエル上3:1)

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ1:5)

神の言葉は、現実世界が最も闇深く、常に響いているとは思えぬ時にこそ、光り輝くものです。今年も12月25日のクリスマスが間もなく来ます。この日はかつて冬至の日で、夜が最も長い日でした。闇の支配が最も強いと人間的には思われる季節に、光の御子が到来されます。この恩寵(おんちょう)を心から感謝し、今年も深い感謝のうちにクリスマスを迎えましょう。

阿久戸光晴

阿久戸光晴(あくど・みつはる)

一橋大学社会学部卒業・法学部卒業。東京神学大学大学院博士課程前期修了。神学修士。ジョージア大学法学部大学院等で学んだのち、聖学院大学教授。同大学長を経て、2017年3月まで学校法人聖学院理事長・院長兼務。専門はキリスト教社会倫理学。日本基督教団滝野川教会牧師、東京池袋教会名誉牧師。荒川区民として区行政にも活躍。説教集『新しき生』『近代デモクラシー思想の根源―「人権の淵源」と「教会と国家の関係」の歴史的考察―』『専制と偏狭を永遠に除去するために』ほか著書多数。
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