神さまが共におられる神秘(35)そむけた顔を同じ方向にして「永遠のいのち」に結ばれる 稲川圭三

2017年11月5日07時02分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年11月2日 死者の日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
子を見て信じる者が皆永遠の命を得、わたしがその人を終わりの日に復活させる
ヨハネ6章37~40節

説 教

今日の福音は、イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人の人に与え、満腹させて、12の籠がいっぱいになるほどの余りが出たという出来事です。その中から今日の箇所が選ばれたのは、そこに父である神さまのおこころ、お望みが何であるかが表されているからです。

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)

神さまのお望みは「永遠のいのち」と「復活」です。それは1つのことです。それをすべての人に望まれます。だから、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われるのです(37節)。

私たちはこの世に生まれたからには、必ず終わりの時を迎えます。この世のいのちの終わりは、人によってそれぞれです。そのいのちを神さまがどのように受け入れ、どのように出会ってくださるかは、究極的なところ、私たちの目には分かりません。

私たちができることは、「永遠のいのち」と「復活」以外、何もお望みにならない神さまの憐(あわ)れみと慈しみに信頼して、亡くなられた方々のために祈り、そして私たちもこの世にあって生きることです。

ところで、すべての人間の中には、その「永遠のいのち」である神さまがお住まいになっておられます。「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。これは、土にすぎない私たちの中に、神さまはご自分の「息」、すなわち「永遠」を吹き入れられたということを表しています。私たちの中には「永遠のいのち」の神さまがお住まいなのです。

ところが私たち人間は、その神さまから顔をそむけたり、後ろ向きになったりして、「永遠」といういのちに一致して生きることができません。その的外れのことを「罪」と呼んでいます。それゆえ私たちは、「永遠のいのち」をいただいているのに、出会えずにいる。これが人間の「罪」の状態です。

ところで、イエスさまとは、人間の中に神さまがお住まいになっていることを私たちにはっきりと表すために来てくださったお方です。イエスさまこそ、「永遠のいのち」そのものです。だからイエスさまは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とまでおっしゃられるのです。

イエス・キリストは、「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に来てくださいました(3:16)。私たちに「神が共におられる」とは何か、そして「共におられる神」と共にいるとは何かを、存在をもって示されたのです。そのお方に結ばれるとき、私たちも「永遠のいのち」を受け継ぐ者になります。

どうやって結ばれるのでしょうか。イエスさまご自身が私たちの内に立ち、私たちと同じ顔と体の向きで生きてくださり、私たちもそのお方の向きに一緒に生きること。そのことを通して、私たちに「永遠のいのち」を得させようと神さまはご計画になりました。それが神の「救い」の計画です。

「洗礼」という出会いを通して「聖霊」が注がれるとき、私たちの内にイエス・キリストの霊である「聖霊」が生き、そのお方のいのちと交わって、私たちもイエス・キリストと一緒の向きで生きる者とさせていただきます。それが「わたしがその人を終わりの日に復活させる」という表現で表されています。

「終わりの日」っていつのことでしょうか。「世の終わり」という意味の「終わり」もあります。しかし、「終わりの日」というのは聖書的な表現です。それは神さまが決定的に力を現される日のことです。「世の終わり」は1つの「終わりの日」ですが、「今日」という日がすでに「終わりの日」というのが聖書の理解です。なぜなら、イエス・キリストは「死」と「復活」を通して人間の中に「永遠のいのち」があるという真実を表し、それだけではなく、表してくださった方ご自身が私たち一人一人と共にいてくださるからです。これが「終わりの日」の意味です。

私たちの中にイエス・キリストご自身が私たちと同じ顔と体の向きで復活していてくださいます。「今日」です。だから、私たちもそのお方と同じ顔と体の向きに一緒に生きる。一緒に生きるならば、出会う人に「神さまがあなたと共におられる」というインマヌエルの神秘を告げ、祈る者にならなくてはならないということです。それが、父である神さまのみこころです。

ある時、そのことをお話したら、ある方が「それは責任が重いですね。ちょっと気負うような感じでしょうか」とおっしゃられました。私は、「もしかしたら、それはちょっと違うかもしれない」とお答えしました。「責任の重さ」というのと違うのは、「自分の中で生きてくださる方があるから」です。そして、「気負い」ということとも違うのは、その方が「一緒に生きてくださるだから」です。

イエス・キリストは私たち一人一人と共にいてくださるいのちです。そして、イエス・キリストの中には、おん父、神さまのお顔と体があります。だから、私たちもイエス・キリストを通して、そのお方と共に生きるいのちにあずからせていただきます。これが父である神さまのお望みです。

いつもミサの中でこう祈ります。「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで、アーメン」。これはどういう祈りか。聖霊という交わりによって、私たち一人一人の内にイエス・キリストが立って生きておられるから、そのことに感謝と賛美をささげるということです。私たちに「聖霊の交わり」があり、イエス・キリストとの「交わり」があるから、イエス・キリストを通して、父である神に「父よ」と呼ばせていただく交わりに入れられるのです。これが教会のミサが日々教えていることであり、今日、イエスさまが福音を通して教えてくださっていることです。

そして、今日読んだヨハネの福音書は「パンの出来事」からの箇所でした。そのことを教えられてもすぐに忘れてしまう私たちのために、そのことの真実と振動と重さと神秘を「パンのしるし」を通して、また私たちは思い出させていただきます。

「キリストのからだ」「これは私のからだである」といって、私たちはご聖体をいただきます。すると、キリストは今日、私たちに言われるでしょう。「これを食べて、あなたは私になり、食べられて、私はあなたになる。そういう交わりに入るが、いいか」と尋ねられて、「アーメン」と答えていただくのが、「聖体の拝領」というコンムニオ(交わり)です。

一緒の向きで生きるいのちにあずからせていただくということです。そして、その振動と感動と重さをいただいて、1週間出会う人に「神さまがあなたと共におられます」と祈り、告げ、そして認め、生きるようにと招かれています。亡くなられたすべての方々も一緒にその交わりに入っておられます。そのことを心から受け取らせていただきたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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