神さまが共におられる神秘(31)「しなければならないことをしただけです」と、恵みを伝え、祈る 稲川圭三

2017年10月8日06時55分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年10月5日 年間第27主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
主人は、ほかの農夫たちにぶどう園を貸すにちがいない
マタイ21章33~43節

入祭のあいさつ

今日は年間第27主日を迎えています。

今日の福音では「ぶどう園と農夫」のたとえが語られます。神さまがすべてを整えてくださった「ぶどう園」を貸してもらった農夫は、収穫の時にその収穫を主人に渡すのを拒みました。

私たちも神さまからの恵みをただただ預けられ、ゆだねられています。その実りは、ただただ神さまに返すようにと求められています。今日も私たちがいただいた恵みへの感謝を神さまに返して生きる1日になりますように、一緒にお祈りをしたいと思います。

説 教

今日のたとえ話は1つの寓話(ぐうわ)のようなものです。たとえ話の中の一人一人の登場人物には、対応する具体的な対象があります。

まず「ぶどう園」を作った「ある家の主人」は、神さまです。「ぶどう園」はイスラエルの人たち。「ぶどう園」のために神は「垣を巡らし、その中に搾(しぼ)り場を掘り、見張りのやぐらを立て」(マタイ21:33)、すべてをよく整えて、それをぶどう園の農夫たちに貸します。

「農夫たち」というのは、イスラエルの指導者のことを指しています。収穫を受け取るために主人が送った「僕(しもべ)たち」というのは、預言者のことです。農夫たちは預言者を殺し、前よりももっと多くの預言者が送られたのにもかかわらず、同じ目に遭わせた。つまり、殺してしまったのです。

最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(37節)と言って送られた主人の息子。これは言うまでもなくイエスさまのことです。

しかし農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった(38~39節)。イエスさまが十字架につけられた「ゴルゴタ」という刑場も、エルサレムの町の外でした。

今日のたとえ話は、登場人物がそのような対応関係になっています。

今日のたとえ話が語られている相手は、「祭司長や民の長老たち」(23節)、つまりイスラエルの指導者たちです。たとえに登場する「農夫たち」というのは指導者のことですから、自分たちのことをたとえて言われていることになります。

「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」(40節)。そうイエスさまに尋ねられて、祭司長や民の長老たちは答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」(41節)。自分のことをそのように言っているのです。

イエスさまはなぜこのたとえを話されたのかというと、自分が今行っていることを、その人自身に客観的に受け取らせ、見つめさせ、判断させるためです。指導者たちは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と判断しました。つまり、自分たちがしていることに対して客観的にそういう判断を下したことになります。それが今日のたとえ話です。

私たちはこの話をどのように聞いたらよいでしょうか。

私たちは「ぶどう園を借りている農夫」と共通点があります。それは、私たちが「ぶどう園」すなわち「神さまに愛された者として生きるところ」にもう入れていただいている、そこで働かせてもらっている、また借りている者であるということです。それは言い換えれば、私たちはもう、神さまが「私たち一人一人と共にいてくださる」「すべての人と共にいてくださる」という真実を知らせていただいているということです。それが、ぶどう園の農夫と私たちとの共通点です。

さて、ここで1つ、今日のたとえの中心的問題があります。農夫たちは「ぶどう園」の収穫を主人に返さない、自分のものにしようとしています。そして、「彼を殺して、相続財産を我々のものにしよう」と言っています。それはいったい何を意味しているかということです。「ぶどう園の収穫を主人に返さない」とは、どういうことなのか。「ぶどう園の収穫を自分のものにしようとする」というのは、どういうことなのか。それが今日のたとえの中心的問題です。

たとえの中のイスラエルの指導者たちにとってそれは具体的には、「律法を守って生きること」を神からの恵みとせず、自分の努力の結果とし、自分の持ち物とすることです。律法を守って正しく生きることは「神からの恵み」なのに、守って生きる「自分の正しさ」にしてしまっているということです。「律法を守っている私は、守っていないあの者たちよりも正しい」という、「自分の正しさ」というところで生きるようにすることです。でも、それは主人の御心ではありません。

今日このたとえを聞いている私たち、もうすでに「ぶどう園」の中にいて、そこで働いている私たちにとって「主人に収穫を返す」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

それは、すべての人の中に「神さまが共におられる」ことをただ認め、人に何を言われようが、されようが、そこで生きるということです。そしてそれは、「神さまからの恵み」であって、ただただ、その真実に出会わせていただいた者の「務め」であって、そのことは「自分の持ち物」ではない、「だから自分が偉い」というようなものではない、ということではないかと思います。

神さまは、私たちと共におられます。信じている者にだけ共におられるのではありません。すべての人と共におられます。そのことを知らせていただき、気づかせていただいたなら、ただそれは神さまからの「恵み」です。自分の努力の結果などではありません。だから、ただその真実を人にも告げて祈る。自分の手柄などにせず、ただ祈る。これが私たちにとって「収穫を主人に返す」ということではないでしょうか。

イエスさまが聖書のほかの箇所で言われた言葉を思い出しました。この言葉です。

「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17・10)

神さまは共におられます。そのかけがえのない真実を知らせていただき、気づかせていただき、出会わせていただいたなら、その真実をただ人に告げるだけです。その真実を人のために祈るだけです。自分に悪口を言う者に対しても祈るだけです。

そして、それをしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。これがイエスさまの教えです。

イエスさまご自身もそのようになさいました。そのお方が私たちの主人であり、主です。そのお方が今日、私たちの内に私たちと同じ向きで生きてくださっているのですから、私たちもそうするのが当然なのだと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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