神さまが共におられる神秘(30)「自分」でなく「神の恵み」に立って、ぶどう園の労働に出かけよう 稲川圭三

2017年10月1日07時44分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
Facebookでシェアする Twitterでシェアする
関連タグ:稲川圭三

2014年9月28日 年間第26主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
兄は考え直して出かけた
マタイ21章28~32節

説 教

この「二人の息子」のたとえに出てくる「お父さん」は、神さまのことです。

お父さんが「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(28節)と頼むと、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して出かけました(29節)。この「兄」というのは、旧約の律法をずっと守れなかったけれども、洗礼者ヨハネが来た時、考え直して「信じる」道に入った人たちのことです。

一方、弟は「お父さん、承知しました」と言ったのに、ぶどう園に行かなかった(30節)。これは、律法を守っていたけれども、洗礼者ヨハネが来た時に信じてヨハネの義の道に入らなかった人たちのことを表しています。

つまり、「律法を守る」ことがそのまま「神の国に入る」こととイコールではなく、洗礼者ヨハネを信じ、ヨハネが示した義の道に入ることが「神の国に入る」ことにつながっていると、ここでイエスさまは言われているのです。

「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問われ、「兄の方です」と祭司長や長老たちは答えました。イエスさまもそのとおりと考え、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われました(31節)。「徴税人や娼婦はヨハネを信じたが、あなたたちは信じなかった」からです。

でも、ここまで読んでも、まだ釈然としない感じがあるかもしれません。それは、「洗礼者ヨハネが示した義の道とは何か」、そしてその「義の道を信じるとは何か」ということが、あまりピンと来ないからです。

洗礼者ヨハネはどういうことを説いたのか。一言で言うなら、こんなことです。「神の裁きはもうすぐそこまで来ている。そして、神が私たちをどのように裁こうが、私たちは何の申し開きもできない。神の裁きの前に顔を上げられる者は誰もいない。だから、ただただ神さまの憐(あわ)れみと赦(ゆる)しとその慈しみに信頼を置いて生きるのみだ」

聖書にはそのことがこのように書かれています。

大勢の人が洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けに来たのを見て、ヨハネはこう言いました。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(ルカ3:8)

そのように言われて人々はどうしたかというと、もう雷に打たれたみたいになって、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と言ったのです(10節)。するとヨハネはこう言います。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(11節)

人々から「罪人」と言われていた徴税人も来て、「わたしたちはどうすればよいのですか」と言いました(12節)。そうしたらヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と答えます(13節)。

次に兵士たちも来ました。兵士は、神の救いとは全然かけ離れた人たちと思われていました。だから、「こんな私たちのような者はどうすればいいのですか」とヨハネに聞きました。そうしたらヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言ったのです(14節)。

これがヨハネの説いた義の道です。何か特別なことですか。そうではなく、普通のことでしょう。ヨハネは、普通の人の道を説いているだけです。

でも、ここで気をつけなければならないのは、洗礼者ヨハネは、私たちが「普通の人の道」を歩めば神の国に入れると言っているのではないということです。そうではなく、ただただ神さまの救いと憐れみと赦しに希望を置いて生きるだけ。そこにしか道がない。それ以外には人が生きる道はないのだと言っているのです。

そして、そのことを受け取ったなら、「下着を2枚持っていたら、持っていない者に分けてやるのが当たり前だろう?」ということです。「規定以上に取り立てないのが当たり前だろう?」、「ゆすり取ったり、だまし取ったりせず、自分の給料で満足する、そこで生きるのが当たり前だろう?」。これがヨハネの言ったことです。

ただ神に信頼を置いて生きる。「自分の正しさ」に立つのではないのです。また反対に、「自分の過ち」や「正しくなさ」に立つのでもないのです。ただただ神さまの正しさと憐れみにのみ信頼し、その中に立つ。これがヨハネの説いた義の道です。

たとえ話の弟がそのヨハネの義の道に入れなかったのはどうしてだかお分かりになりますか。「自分はアブラハムの血筋だし、そこそこ律法も守っているし、それほどまでではないだろう」と考え、結局、「自分」というところに立っていたからです。そこは、本当に人間が立つべきところではない。私たちが立つべきところは、神さまのいのちと神の国です。

「神の国」とは平たく言えば、「神さまが共にいてくださる」という真実のことです。こんなどうしようもない自分の中に神がおられる。それが「神の国の真実」です。その真実に信頼を置く。そここそが私たちの立つべきところです。自分にはそんな資格がないという「自分の資格のなさ」に立つのでもありません。反対に、「私にはその資格がある」という「自分の資格」に立つのでもありません。そうではなく、ただただ「神さまが共にいてくださる」という「神の国の真実」に立つのです。それが私たちの立つべきところです。

私たちも神さまから、「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言われているのです。ぶどう園へ行って働くとは、「私と共に神がおられる」という真実に入ること。また、自分の目の前にいるすべての人の中に「神が共におられる」という真実を認め、そこで生きること。

なぜそれが「労働」と呼ばれるのか。それは、結構しんどいこともあるからです。ぶどう園で働くとは、「神が共におられる」という、その目に見えない真実を第一番に認めて生きることです。だから私たちは、ぶどう園で働く者となるならば、すべての人に「神さまが共におられる」ことを認めなければなりません。また、すべての人に「神さまがあなたと共におられます」と祈らなければなりません。そしてそれは、自分のことを「馬鹿」と言ってくる人に対しても、「神さまがあなたと共におられます」と祈らなければならないということです。

それは確かに「労働」かもしれませんね。でもそれは、ぶどう園で働くという「恵み」。どんな時でも神さまが共にいてくださる神の国に生きるという「恵み」です。私たちは今日、そういう呼びかけを受けています。

どうしますか。ぶどう園へ行って働きますか。「嫌です。自分にいつも文句言う人に、『神さまがあなたと共におられます』などと言いたくない」としますか。それとも、考え直して出かけますか。

(沈黙)

一緒に出かけましょう。苦手な人がいても、どうぞその人のために祈りましょう。その人を思い浮かべて、「神さまがあなたと共におられます」と祈って、神の国の真実を認め、ただただその中に入るようにしましょう。そのためにこそ、今日、私たちは呼ばれているのです。そのこと以外の目的のためには、私たちは決してここに呼ばれていないのです。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
この記事が気に入ったら「フォロー」しよう
フェイスブックで最新情報をお届けします
関連タグ:稲川圭三

関連記事

クリスチャントゥデイからのお願い

いつもご愛読いただき、ありがとうございます。皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは月間40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。

記事の一つ一つは、記者が取材をして書き上げ、翻訳者が海外のニュースを邦訳し、さらに編集者や校閲者の手も経て配信しているものです。また、多くのコラムニストや寄稿者から原稿をいただくことで、毎日欠かすことなくニュースやコラムを発信できています。

この日々の活動を支え、より充実した報道を実現するため、読者の皆様にはぜひ、祈りと共に、サポーターとして(1,000円/月〜)、また寄付(3,000円〜)によって応援していただきたく、ご協力をお願い申し上げます。支払いはクレジット決済(Paypal)で可能です。希望者には、週刊メールマガジンも送らせていただきます。サポーターや寄付の詳細、またクレジットカードをお持ちでない方はこちらをご覧ください。

  • 金額を選択:
  • 金額を選択:

コラムの最新記事 コラムの記事一覧ページ

主要ニュース

コラム

人気記事ランキング