神さまが共におられる神秘(29) 馬鹿にする人のために祈る神の「ぶどう園」での労働 稲川圭三

2017年9月24日07時09分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年9月21日年間第25主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私の気前のよさをねたむのか
マタイ20章1~16節

説 教

イエスさまは「ぶどう園の労働者」のたとえを話すにあたって、「天の国は次のようにたとえられる」(マタイ20:1)と言われました。つまり、「あなたがたの天の父である神さまのお心はこういうことなのだよ」ということです。

今日のたとえ話を聞く時に気をつけたいところが幾つかあります。その1つは、「ぶどう園で働く」とはどういうことかということです。もう1つは、12時間働いた者も1時間働いた者も同じようにもらった「1デナリオン」とは何を意味するのかということです。

まず、主人が1日に5回も、ぶどう園で働く労働者を雇うために広場に出かけていることに注目しなければなりません。「夜明け」というのは午前6時のことです。そして次に出かけたのは「九時ごろ」(3節)です。「十二時ごろと三時ごろ」(5節)、そして最後に「五時ごろにも行ってみると」(6節)とあります。最初に雇われた人は12時間働き、最後に雇われた人は1時間しか働いていません。

夜明けには、「一日につき一デナリオンの約束」でぶどう園に送られました。9時頃に行った時には、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言っています(4節)。12時の人にも3時の人にも「同じようにした」(5節)とあるので、「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言ったのだと思います。最後に5時頃に雇われた人たちには、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(7節)と言っただけで、賃金のことは何も言っていません。どうもこの主人は、賃金のことよりも、まずぶどう園に行って働くことをお望みになったみたいです。

「ぶどう園で働く」とはどういうことでしょうか。それは、神さまのいのちに繋(つな)げられた者として、今日の日の今を生きるということです。今日の日の今のいのちを神さまが繋いでくださっているという信頼の中で生きるのです。

それがなぜ「労働」と呼ばれるかというと、「ぶどう園」、すなわち神さまが共にいてくださるところで生きるとは、自分を馬鹿にする、自分のことをちっとも認めない、むしろ軽んじてくるような相手に対しても、「神さまがあなたと共におられる」という真実を認め、祈り、生きることだからです。それは骨の折れる仕事と言ってよいかもしれません。

しかし、それはもう「神さまが共におられる」という真実の中でなされる業(わざ)であり、神さまのいのちに深く結ばれたところでなされる業です。それは単なる労働である前に、ただただ神さまからのお恵みなのです。

自分にも人にも「永遠」という神さまが一緒にいて、共に生きてくださっていることを認めて生きる。それが「ぶどう園」に行って働くということの意味です。

では、12時間働いた者にも、1時間しか働かなかった者にも、同じように主人が与えた1デナリオンとは何でしょうか。それは「永遠のいのち」の約束のことだと思います。

教会の中に「天国どろぼう」という言葉があります。心ない言葉とも言えるし、罪のない言葉とも言えるのですが、亡くなる最後の最後に洗礼を受けて神さまのところに行くことを「天国どろぼう」という言い方をするのです(笑)。

「まる1日、暑い中を辛抱して働いた私たちとこの連中とを同じ扱いにするとは」とたとえの人は不平を言っています。「我々は生まれた時から信じて生きているのに、この人なんか1日しか信じていない。我々とこの人を同じ扱いにするのですか」(笑)と言うのはいかがなものでしょうか。

12時間働いた人は、「ぶどう園」で働くことが恵みであることを忘れています。神が自分と共におられ、人の中にも神さまがおられる。そのことを受け取って生きるのはただただ恵みです。しかし、早朝から働いた者は、それが神の恵みであることを忘れて、自分がどれだけ努力したかという、「自分」に重心を置いてしまいました。それはやはり誤りです。

私は9年間、千葉県習志野市で公立小学校の教員をしていたのですが、昔、教員仲間の1人と深く話す機会を得ました。女性の方ですが、いろいろ話しているうちに、私がカトリックの信者だという話になって、神さまや信仰の話になって、数年してその方も洗礼をお受けになられました。その時にその女性がおっしゃったのです。

「稲川さんは幼児洗礼だからお分かりにならないかもしれないけれど、洗礼を受ける前、私がどれだけ深い闇のようなところにいたか、どれだけ暗い淵のようなところに立っていたか、稲川さんにはきっとお分かりにならないと思います」

午後5時頃にも主人は広場に行ってみると、ほかの人たちが立っていたのです。主人は彼らに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると(6節)、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えました(7節)。「何もしないで立っている」というのは、自分のいのちが何にも結ばれていない、何の支えもない、何にも繋がっていない、深い闇の中にいるようなものではないでしょうか。

それで主人は、賃金のことなんかもうお構いなしに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ったのです。あなたたちも今すぐに「永遠のいのち」に繋がれなければならない。その主人の切実な思いがこの言葉になったのです。

私たちが今日、神さまが同じ顔と体の向きで一緒に生きてくださっていることを知るなら、そして周りのすべての人に神さまが一緒にいてくださることを知るならば、私たちは「ぶどう園」の中で生きる者、働く者となります。

そこでは苦労も多いかもしれません。自分のことを「馬鹿」と言ってくる人にも、「神さまがあなたと共におられます」と祈らなければならないからです。

しかし、それは何よりも、決して神さまのいのちから離れることのない「ぶどう園」の中にいるという恵みなのです。「あの人は1時間しか働かなかった」なんて、人のことはどうでもいいのです。

「神さまが共におられる」という恵みをいただいたならば、そこで生きる。人がどうであろうが、自分は「神さまが共におられる」という恵みの中で生きるのです。その恵みは、人がどうであれ、決して減るようなものではありません。比較などせず、ただ自分はその恵みの中で生きるのです。それを今日のたとえの主人は、「自分の分を受け取って帰りなさい」(14節)という言葉で示しています。

神さまは共におられます。私の中におられ、あなたの中におられます。そこで、なんであれ生きる。その恵みの中で生きる。いただくものは「1デナリオン」。すなわちそれは「永遠のいのち」の約束です。働いた時間など関係ありません。「永遠のいのち」の約束は、人間の努力の結果、得られるものではなく、何よりもまず神さまからのお恵みであり、お望みなのです。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。これが神さまのお心です。イエスさまは今日のたとえで、神さまのお心を示されたのです。

どうか今日、私たちが「ぶどう園」で働く者になりますように。今日出会うすべての人に「神さまがあなたと共におられます」という真実を祈って、認めて生きる労働者になりますように。一緒にお祈りをしたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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