こころと魂の健康(54)躾(訓練)という名の人権侵害 渡辺俊彦

2017年9月11日07時02分 コラムニスト : 渡辺俊彦 印刷
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現在「躾(しつけ)」という漢字は当用漢字から消えています。なぜそうなったのかは分かりません。しかし、躾は身を美しくすると書きます。身を美しくすることは、社会性を身につけることです。にもかかわらず、躾という名の虐待が後を絶ちません。

厚生労働省の最近の発表では、虐待件数は12万件を超えています。実体は、もっと多いということです。しかも、5日に1人の子どもが虐待死しているというのです。大変な状況です。

虐待する養育者は、不思議なことに虐待していながら「躾」だと言います。自己防衛なのでしょう。実際は「躾という言い訳」では済まないことです。今回のテーマを「躾(訓練)という名の人権侵害」にしました。本来、「躾という名の虐待」とすべきでしょう。しかし、あえて「人権侵害」としたのは、人権侵害という言葉の方が広義に理解でき、教会にも適応して考えることができると思うからです。

さて、「躾(訓練)とは何か」をあらためて考えていきましょう。躾に関する言葉をヘブライ語やギリシャ語で調べてみると「教える」という意味があります。ですから、躾は人権侵害をすることではありません。躾は、子どもの発達段階の課題に応じて、じっくりと教え、訓練しながら、自分の行動の責任を負うことができるようにすることです。

日常の養育者と子どもとの適切な関係性の積み重ねが、自分の行動を矯正したりすることにつながります。また、自分のとる行動がどういう結果をもたらすかを予見する力を養うことにもなります。良い躾は、この両面を有しているということです。箴言15章10節に「正しい道を捨てる者にはきびしい懲らしめがあり、叱責を憎む者は死に至る」とあります。

私は、学生との関わりで日常的に経験することがあります。それは、次のようなことです。私は、試験の代わりに学生にレポートの課題を提示し、何月何日の12時までに学生課に提出するように指示します。その際、「提出期限に遅れた場合、レポートの受理はしませんので気を付けるよう」注意を促します。

しかし、必ず何人かの学生は期限に間に合いません。そうすると「あなたが約束の時間を守らなかったので受理できません」と言うことになります。私が、再三注意しているにもかかわらず、提出期限に遅れる学生が必ずいます。その結果、レポートは受理されません。学生たちは、これらの失敗を通して、自分で自分の責任を担うプロセスを学ぶのです。厳しい懲らしめの目的は、罰を与えるためではありません。むしろ、是正とともに積極的に課題などに取り組む姿勢を育むものなのです。

人間は、日常のさまざまな失敗の体験を通して、「是正的な面」と「積極的な面」を学ぶことになります。そして、失敗して学んだことを試みながら、適切に対応できるようになるものです。もちろん、再度失敗することもあります。私たちは、再度失敗する経験の中で、失敗と向き合い、振り返りながら、何がいけなかったのかを考えるものです。その結果、失敗を修正し、もっと適切に対応するためにどうするかを身につけるのです。それは、適切に対応するためのプロセスを身につけることでもあります。

ですから、子どもたちの躾を考えると、失敗は価値ある経験ということになります。なぜなら、失敗を通して、子どもの内的な構造の形成と責任感を促すことになるからです。こうして、良い躾はしっかりとしたパーソナリティーを築きます。そのため、養育者には、子どもが失敗を繰り返す必要がなくなるまで練習(訓練)できる、安心で安全な枠組みを提供することが求められるということでもあるのです。

この時注意することは、躾と罰は違うということです。罰とは、悪い行いに対する償いです。しかも、罰は過去を振り返らせます。そのため、過去の悪い行為に対して支払いをすることに焦点を合わせてしまうのです。イエス様は、私たちの過去の罪の身代わりとして十字架で代価を払ってくださいました。しかも、私たちが受けるはずの父なる神からの罰をその身に受けてくださったのです。こうして、イエス様は、私たちを過去から解放してくださいました。

罰は過去を見ます。それに対して、躾は前を見るということです。躾は、建設的で積極的な関わりということでもあります。そのため、躾は間違いや失敗を犯しても、裁かれたり否定されたり、関係を失う心配がないものなのです。それは、子どもにとって安心で安全な関わりということに他なりません。このような関わりこそ、人権侵害と無縁なものとなるはずです。

ヘブル12章10節に「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」とあります。この「良いと思うままに私たちを懲らしめる」を新共同訳では「自分の思うままに鍛え」としています。口語訳は「自分の考えに従って訓練を与える」となっています。

この3つの訳を比較すると、「懲らしめる」「鍛える」「訓練を与える」とそれぞれ表現に違いがあります。しかし、その目的は「私たちの益のため」「イエス様の聖さにあずからせるため」だと言います。ですから、これらの言葉は、過去ではなく前に向かうための関わり方ということに他なりません。

このように聖書からも、前(未来)を向いて関わることが、養育者の務めであることが分かります。このような関わり方をされる子どもは、間違いや失敗をしても、裁かれたり否定されたりして関係を失う心配から解放されるのです。そして、安心して失敗することができるようになるのです。人を育てるということは、安心して失敗できる環境を作り出すことではないでしょうか。

例えば、日常よく耳にする1つは「お母さんに口答えしたら、もうあなたをかわいがってあげませんよ」などという言葉です。子どもは、この養育者の言葉によって逃げ道を失ってしまいます。子どもにしてみれば、「反抗することによって人生で一番大切な関係を失ってしまう」か、「妥協して表面的に従順な態度をとる」かの選択を迫られていることになるかもしれません。

どちらを選択しても、子どもにとって良いことでないことは明らかです。では、どうしたらよいでしょう。次のように言ってみたらどうでしょうか。「お母さんはあなたが大好きなのよ。それは決して変わらないわ。でも、また屁理屈を言うなら、1週間~をすることを禁止します」と。

このような関わり方をすることによって、関係を失わず、罪に定めることもなくなります。また、愛と安全を失うことなどないことが分かってきます。そして、「責任ある行動を選ぶ」か、「自分の行動の結果を選ぶ」かを選択できるようになります。

このような環境で育った子どもは、やがて堅い食べ物を食することができるようになります。また、失敗を通して自分の限界を知るようになります。自分の限界を知ることは、人生の宝となります。自分の限界を知る者は、無理をせず身の丈で歩めるようになるからです。そればかりではなく、適切に人の助けを求めることができるようにもなります。そして、今までできなかったことが少しずつできるようになり、成長していきます。

では、教会はどうでしょうか。教会は、信徒訓練ということを大切にします。なぜなら、Ⅱテモテ2章15節に「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」とあります。この「熟練した者」について新共同訳は「適格者」と訳しています。New King James Version は「恥じる必要のない」となっています。

私たちは、主の働き人として「恥じることのない熟練した適格者」となることが求められているということです。もちろん、牧師伝道者は当然です。しかし、教会員の方々一人一人も例外ではありません。そのためにも、教会全体が安心して失敗できる環境を作れるかどうかが問われるということではないでしょうか。すべてのキリスト者は「恥じることのない熟練した適格者」になるために訓練されることが求められているからです。

ルカの福音書6章40節に「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです」とあります。牧師にとって責任が問われる言葉です。本来、私たちの師はイエス様です。しかし、現実的に教会員にとって牧師は、生き方の師という側面を持っています。その意味で、教会員にとって牧師はクリスチャン生活の師です。

そうすると、教会員は牧師以上になれないということになります。それだけ、牧師は世のどんな人々よりも深い霊性が伴う生き方が求められているということです。教会や神学校が、深い霊性の伴う生き方ができる器を育てることができたら素晴らしいことです。

教会や神学校は、しばしば「訓練」という名の盲目的服従を求めることがあります。意見や反論でも言うものなら「あなたは傲慢(ごうまん)だ」と言われてしまいます。私たちがする奉仕などで何らかの失敗をすると、否定的メッセージを聞くことがしばしばあります。そのため、安心して失敗することができないのです。

そして、いつも牧師や教師の評価が気になり、ビクビクするようになります。結局、人の評価が気になって自信を失ってしまいます。自信を失っている状態に対して「自信をもってやりなさい」と励ましの言葉を聞くことがあります。そして、少しずつ自信を回復し、奉仕などを担っていくと「あなたは高慢だ」と言われてしまうことがあります。では、「どうすればよいのだ」と混乱してしまうものです。また、不適切な対応によって「霊性」に傷をつけられてしまうこともあります。

こうして、教会や神学校の場で、訓練という名の人権侵害が起こっているのではないでしょうか。このような原因の1つは、「安心して失敗できる環境」「人生の失敗を価値あるものとする環境」が作り出せていないところにあるように思います。そのため、是正も積極性も生まれてこないばかりか、抑圧した私がつくられてしまいます。そのため、クリスチャンとして大人になれず、未熟なままの状態となってしまいます。

ヘブル5章14節に「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」とあります。私たちは、堅い食物を食することができる者となりたいものです。また、良い物と悪い物を見分けるパーソナリティーと霊性を構築したいものです。私たちはもう1度、躾(訓練)の在り方を見直してはどうでしょうか。そして、「安心して失敗のできる共同体」を目指してはいかがでしょうか。

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渡辺俊彦

渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)

1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。

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