神さまが共におられる神秘(26)「なぜ」という思いはそのままに、イエスさまの先に行かない 稲川圭三

2017年9月3日06時55分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年8月31日 年間第22主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい
マタイ16章21~27節

説 教

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)

「このとき」とは先週の福音の内容です。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスに問われ、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた「そのとき」からです(15~16節)。

イエスが「神からのメシア」「救い主」であると告白したそのときから、イエスさまも弟子たちに打ち明け始められました。「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たち(つまり当時の指導者)から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と。

イエスさまは何をお伝えになりたいのでしょうか。「人間は多くの苦しみの中にあっても、また死ぬようなことがあっても、死を超える神さまとすでに共にいるという真実に出会わせるために、自分は苦しみを受けて、死に、復活しなければならない」とお教えになったのです。

神さまは共におられるお方です。神さまは、すべての人間の中にご自分のいのちの息を吹き入れておられるお方なのです(創世記2:7参照)。

人間の救いとは、その真実に「そうなんだ」と出会わせていただき、その真実の中を一緒に生きることです。そのためにイエスさまは、「苦しみにあっても、すべての者から見捨てられても、殺されても、共におられる神さまの真理は決して変わらず、死によっても決して損なわれないということを証しし、私たちをその真実に出会わせるために、必ず死んで復活しなければならない」と言われたのです。

ところが、それを聞いたペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)。若い殿様に仕える爺がいて、「殿、滅相もございません。ご自分が死ぬなど、そんなこと決して口にしてはなりませぬぞ」(笑)といさめることがあるかもしれません。ペトロも年長だったので、そう言ったのでしょう。

このペトロの言葉はつまり、「神さまが一緒にいてくださるのだから、そんな悪いことが起こるはずない」「こんなことが起こるのは、神さまがいないからだ」という私たちの考えと同じです。それらは、表れ方は違っても、根っこは一緒です。「神のこと」ではなく「人間のこと」に立っているのです。

そういう時、私たちは「どこ」にいるのでしょうか。たぶん、神さまよりも前を歩いているのです。今日のペトロもそうでした。それに対してイエスさまは振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)

「引き下がれ」という言葉は「私の後に行け」という意味です。私たちもすぐ神さまよりも前に出てしまう。「神さまが共にいるなら、こうでなくてはならない」「こうあるべきだ」「何でこんなことが起こるのか」と、すぐに「人間の思い」に立って「神の思い」を従わせてしまう。イエスさまが「(あなたは)神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われるのは、このことです。そういう思いに立つペトロや私たちに対してイエスさまは「私の後に行け」と言われるのです。

神さまは、人間が自分の思いを実現させるために働いてくれるような道具や付属物ではありません。人間は滅びあるものを求めますが、神さまの望みは人間の永遠のいのちなのです。

イエスさまは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)

「私について来たい者」というのは、原文では、先ほどの「私の後に行け」という箇所と一緒の言葉が使われています。「『イエスさまの後に』ついて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従いなさい」と言われるのです。

「イエスさまの後に従う」とは、「神さまが私たちの中にいてくださるという真実」に従うことです。神さまはどこか遠くで見守っているのではなく、ただ近くにいてくださるのでもなく、私たちと一緒に生きてくださるお方です。そして、その真実を一緒に生きることを「私に従う」と言われるのです。

「『自分を捨て』と言われても、自分には養わなければならない家族がいるから、捨てることはできない」と思われるかもしれません。この「捨てる」と訳されているギリシャ語は「放っておく」「知らん振りする」という意味の言葉です。つまり、「神さまが共にいてくださるという真実」を第1番に置き、他のいかなるものも放っておくということです。

「神さまが一緒にいてくださるなら、何でこんな嫌なことが起こるの」という思いがあるかもしれません。でも、そのことを「神さまが共におられるという真実」より前にしない。そのような思いはあっても、それはそれで、そのままに。前に出すのでなく、後ろに「背負う」のです。

「神さまが共にいてくださるなら、あんなことは起こらないでほしい」という思いがあっても、それはそれで、そのままに。「あんなことがあったのは、神さまが共におられないからでは」という思いがあっても、決して1番にしない。

でも、そういう思いは人間ですから自然に湧いてきます。だから、それは十字架として後ろに負って、「神さまが共におられるという真実」を1番にして歩む。それが、イエスさまが今日、私たちに教えておられる歩みです。

結婚講座のとき、信者でない方がこんなことをおっしゃいました。「およそ聖書というのは、すべての損得勘定を度外視したような教えですね」。そのとき、私はあえて、「いや、違いますよ。聖書は損得勘定がとてもはっきりしています」と言って、今日の福音の言葉をお教えしました。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(26節)

全世界のすべてをかき集めて自分のものにしても、共にいてくださる方との出会いを失っているなら、何の得があろうか。「何の得もないよ」というのがイエスさまの損得勘定です。全世界の財産を積み上げても、「神さまが共にいてくださるという真実」を1番にしないなら、その真実には出会えないのです。「どっちが得か、よ~く考えてみよう」(笑)という問いです。「神さまが共にいてくださるという真実」に入る方が得だと言っているのです。

日々、いろいろな心配事がたくさんあるでしょう。病気や健康、子どもの将来、学校や仕事、人間関係・・・、私たちを悩ませたり心配させたりすることがあります。でも、その一つ一つの出来事の最も根本、根源にあるのは、「神さまが共にいてくださるという真実」です。そう思えても思えなくても、納得できても納得できなくても、理解できても理解できなくても、「神が共におられる」ということを、すべてを置いて1番にするよう求められています。

そこにもう1度つないでいただいて、新しい歩みを生きる者になりますように、お祈りをしたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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