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神さまが共におられる神秘(23) 恐れの嵐の中で「安心しなさい。わたしだ」と言ってくださる方 稲川圭三

2017年8月13日06時35分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年8月10日 年間第19主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください
マタイ14章22~33節

入祭のあいさつ

8月6日から15日まで「日本カトリック平和旬間」になります。聖書の中で「平和」とは、「神さまが共にいてくださる」ということです。今日もミサの福音の中で私たちは、「共におられる神である主」が荒れ狂う波の上を歩んで私たちのところに来てくださる力強いお方であることを受け取らせていただきます。

私たちの周りを見渡せば、人間の自由意思の乱用によって「共におられる神さま」が嵐によってかき消され、隠されたようになってしまっている現実が見えるかもしれません。しかし、その最も奥で私たちを支配してくださっているのは「主である神さま」です。そのお方こそ、私たちのいのちの砦です。その平和に信頼を置いて歩む者に今日もまた新しくさせていただきますように、ご一緒にお祈りしましょう。

説 教

今日の「嵐の湖の上を歩くイエスさま」の出来事は、5千人にパンを食べさせた出来事のすぐ後に書かれています。マタイでもマルコでもヨハネでも、「パンの奇跡」のすぐ後に書かれています。ですから今日の出来事とは、パンを食べさせてくださったイエスがいったいどなたであるのかを分からせるための出来事だと理解していいと思います。それはつまり、今日、聖体拝領を受けますが、そのパンを食べさせてくださるイエスがどなたであるかを私たちに教えてくださる話であるということです。

5千人の人がパンを食べて、きっと喜びの雰囲気があったでしょう。弟子たちもそこにい続けたら、皆に褒められたかもしれない。「よくやったね」「すごかったね」と。ところが、イエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」とあります(22節)。そして、「向こう岸」とは異邦人の土地、自分たちの知らない土地です。弟子たちにとってみれば、あまり行きたくないところです。そこに無理に行かされたということになります。しかも、嵐の中で徹夜を強いられることになりましたから、弟子たちの思いはどんなだったでしょうか。

今日の福音の箇所は、私にとって特別な箇所です。というのは、17年前、司祭叙階式があった時に「叙階の記念カード」を作って皆様にお配りしたのですが、その時に今日のペトロの言葉を私は選びました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)。どうしてこの言葉を選んだのかというと、「そっちに行きたい」という単純なペトロという人を好きだったのかなと思います。

私は司祭になって、特に最初の10年くらい、とても大変でした。毎日毎日、「どうしてこんなことが」と思うようなことが押し寄せてきて大変だったという記憶があります。叙階式から半年たった時には、「叙階式、そんなことがあったかなあ・・・」と、もう10年も前のことのような気がしました。

ちょうど今日の弟子たちのように、行きたくないところに強いて行かされ、嵐の中にポーンと投げ込まれるみたいな意識だったのです。司祭になり、人との関係性が全く変わってしまって、日々初めての経験の連続で、絶えず逆風の中で波に悩まされるという状況にありました。

その時、私はまるで呪文みたいに、いつもいつも「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言っていたような気がします。心の中で。

でも、何年かたって気が付くと、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」というペトロの言葉はどこかに落ちてしまって、ただその後のイエスさまの「来なさい」(29節)という言葉だけが残っていました。

自分の話はさておき、今日の福音の箇所にはいくつものシンボルが登場します。「舟」というのは、聖書では「教会」「共同体」のシンボルです。キリストを信じる民、教会が「舟」です。そして「海」「湖」は、聖書の中では良くないものの象徴です。何か魔物が住んでいるというイメージがあるようで、つまり荒れ狂う波に弄(もてあそ)ばれる「舟」というのは、そういう悪の力に翻弄(ほんろう)されてしまう「教会」であり、世の波風の中で不安になる私たちの心なのかもしれません。

ところが、そのような波はものともせずにイエスさまが湖の上を歩いて来られた。何のために。私たちのところに来るためです。言い換えるなら、神さまはもう一緒にいてくださるのだけれども、その真実に私たちを出会わせるために、水の上を歩いてイエスさまが来られたということです。

ところが、不思議なことがあります。大の海の男が「幽霊だ」と言っておびえ、「恐怖のあまり叫び声をあげた」ほどに恐れたということです(26節)。「神さまが私たちと共におられる」という真実との出会いを結ぶために来てくださるイエスさまであるのに、声をあげるほどに恐れる・・・。不思議なことだと思いますが、不思議なことではないのかもしれません。

今日の嵐の湖の出来事は、1日以内の出来事でしょう。でもその出来事の中に、私たちの教会の歩み、あるいは一人一人の救いの歩みを見るならば、もっとスパンとしては長いことがあるのかもしれません。それはひと月であったり、1年であったり、10年のことであるかもしれません。

私自身のことを考えるならば、「主が共におられる」ということを私に分からせようと神さまが用意してくださった期間は、私にとって恐ろしく長いものでした。でも、人間の存在の最も奥深くをつかさどり、人間の存在の根源を支えてくださるのは、良いお方である主です。主であるお方が悪の力を超えて私たちのところに来られるという真実を受け入れさせていただいた時、嵐がおさまりました。私たちにとって今日の福音は、そういう真実を教えてくれます。

私たちの周りで何か自分を恐れさせるようなこと、自分を最も奥深くで恐れさせているような人、そういう関わりがもしあるとすれば、その恐れの向こうからイエスさまご自身が、神さまが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃってくださっています。

今、身近に心配事があるお方もいらっしゃるでしょう。でも、その出来事の最も奥深くから呼び掛けてくださっているお方があります。そのお方は、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃってくださっています。

今日の出来事は、パンを食べる出来事の意味を分からせてくれる話だと申し上げましたが、同時に、私たちがいただくパンであるキリストがどなたであるのかを私たちに教えてくれる出来事でもあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださっているお方が、今日私たち一人一人のところにおられます。パンのしるしを通して、その真実との出会いをまた新しく私たちの内に目覚めさせてくださいます。

そのお方と一緒の向きで生きるいのちに変えられますよう、ご一緒にお祈りをし、そして平和のために働く者とされますよう、一緒に努めたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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