思い出の杉谷牧師(7) 下田ひとみ

2017年9月29日10時25分 執筆者 : 下田ひとみ 印刷
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7 忘れられない説教

 

春が終わり、やがて迎えた暑さきびしい夏も行き、季節は秋に入った。

風が教会の庭の木を揺らし、葉を散らしていく。ひんやりとした空気が、夏の間火照(ほて)っていた会堂の隅々にまで行き渡り、私たちの気持ちもしんなりと落ち着かせてくれる。そんな穏やかな、恩寵(おんちょう)にも似た日々がつづいたある日。

しかしその朝は、厚い黒雲の広がる肌寒い日曜日だった。

窓の外に今にも降りだしそうな鉛色(なまりいろ)の空が広がっている。朝の10時半だというのに、会堂は電灯を点(つ)けなければならない暗さだった。礼拝が始まり、賛美歌が唱(うた)われ、先生が司会者と代わって講壇に立っていく。いつもながらの聖日の朝の風景。

私は膝(ひざ)の上の聖書に両手を載せ、ぼんやりと壇上を見上げていた。疲れと寝不足のためだっただろうか、身体が怠(だる)く、瞼(まぶた)も重く、どうしても説教に集中できない。

早く話が終わればいいなあ。

不謹慎にもそんな思いで、私は腕時計の針の進み具合をさっきから何度も確かめていた。

思い出の杉谷牧師(7) 下田ひとみ
夏期学校でお話をする杉谷先生

その朝の説教は新約聖書のマルコの福音書からであった。先生はその2章に出てくる「レビ」という人物について語っていた。

レビはユダヤ人でありながら、当時の権力者であるローマ人の手先となり、同胞のユダヤ人からローマに納める税金を取り立てる仕事をしていた。

取税人と呼ばれていた彼らは、税金をごまかして定額より多く相手から取り立て、その差額を自分の懐(ふところ)に入れるのが常であった。そのために裕福な暮らしはしていたが、ローマ人からは軽んじられて相手にされず、同胞のユダヤ人からは忌(い)み嫌われ、憎まれていた。

レビもほかの取税人同様に、ユダヤ人から村八分にされ、寂しい生活を送っていた。そんなレビのところに、ある日イエスがおいでになった。

イエスは道を通りながら、収税所に座っているレビをご覧になって、「わたしに従ってきなさい」といわれる。するとレビは立ち上がって、イエスに従った。

このあとイエスは、レビのような取税人や遊女のように、罪人と呼ばれ、当時の社会から冷遇され、仲間はずれにされていた人々とともに、食事の席につかれる。たとえば男と女がともに食卓の席につくというのが、そのふたりが夫婦であることの証拠であるというように、この時代にあっては、一緒に食卓を囲むという行為は、互いの親密な間柄を公に示すことであった。

無論、これを見た世の人々が、このことに無関心でいられるわけがない。特に神への正統派の信仰者であることを誇るパリサイ人と呼ばれていた人たちが、このような世間の秩序を乱す行いについて、黙っているはずがなかった。

「なぜ、あなた方の先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのだ」

彼らはイエスの弟子たちにいった。

この時のイエスの答えは有名である。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」

先生はあらましこんな話をしていった。それは馴染みのある聖書の箇所であり、今までもよく耳にした説教だった。

少しかすれた先生の声はつづく。

「レビは、こんなイエス様のお言葉を身近に聞き、どう思ったでしょうか。レビは自分は罪人だと知っていたと思います。自分は正しくないと自覚していたと思います。人々に嫌われ、相手にされない寂しい生活……。でもレビは、それは自分にとっては仕方のない、あるいは当然の報いだと思っていたはずです。イエス様のお言葉を聞いて、レビはきっと今までの自分の仕事を悔いたでしょう。金のために権力者にへつらい、同胞をないがしろにしていた自分の生活、あるいは自分の生き方を悔いたでしょう。そして嫌われ者の自分をかばい、一緒に食卓の席についてくださったお方に、なんともいえない感謝を、愛を、感じたでしょう」

いつもと変わることのない淡々とした口調。咳(せき)まじりの枯れた声。しかしその眼には、情熱の火が炎々と燃えていた。どうしてもこれだけはという、神に召された人の心意気が感じられた。

私は疲れも眠気も忘れ、いつしか先生の話に引き込まれていた。

「イエス様は私たちを招いてくださいます。罪人の私たちを。私たちはよく失敗をする者です。同じ過ちを何度も犯す。そんな時、私たちは気落ちし、自分に嫌気がさし、逃げ出したくなってしまいます。でもイエス様はそんな私たちを招き、罪を赦(ゆる)してくださる。ここに救いがあるのです。イエス様の招きに従って罪赦された者だけが、真実に新しくなることができるのです。レビは生まれ変わりました。自分の罪を認め、悔い改め、イエス様を受け入れました。

その後、イエス様はレビを有益な仕事をする者と召してくださいます。その仕事とはなんでしょうか。

皆さん、レビのもうひとつの名前をご存じでしょうか。聖書には同じ人が別の名で呼ばれている記録がところどころにあります。12使徒のペテロの本名はシモンでしたし、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネはボアネルゲと呼ばれていました。ユダ亡きあとの12番日の使徒を選ぶ時、ヨセフとマッテヤのふたりがくじを引いた箇所では、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと書いてあります。ヨセフは3つの名前をもっていたのです。

レビのもうひとつの名。それはマタイといいます。

マタイの福音書の9章をお開きください。この9章に同じ記事が出ていて、『マタイという人が収税所にすわっているのを見て』と書いてあります。レビすなわちマタイ。このマタイが……」

このとき予期せぬことが起こった。先生が開いていた聖書を突然高々と頭上に持ち上げたのだ。

「このマタイが、聖書の中のマタイの福音書を書いたのです」

言葉が感極まったように、ここで少し途切れた。

「取税人をしていた時、おそらくレビは、誰かれがこれをいくらいくら納めたと帳簿に書いたでしょう。あの人はこれだけ、この人はこれだけと金額を書き記し、それに上乗せした額を相手から取り立てて、営利をむさぼったでしょう。あるいは、督促状のようなものも書いたかもしれない。貧しくて税金を納めることのできない人に、レビはその督促状を差し出して、非情にお金を催促したかもしれません。ごまかし、不正をし、罪にまみれた手が、その同じ手が、聖書を、この聖書を書いたのです」

先生は決して芝居がかった調子で講壇で説教をする人ではなかった。手を上げたり、声の調子を変えたり、大げさなジェスチャーをしたり、先生はそんなことはしなかったし、またそれは先生にふさわしい姿ではなかった。

だから私は驚いていた。いやおそらく、集っていた全員が驚いていたと思われる。

頭上に上げられた聖書。黒い表紙の角は擦(す)り切れ、幾十年にもわたって開かれたため分厚く膨らみ、中の金箔がはげ落ちている聖書。それを持つ手はまだ下ろされることなく、天に向かって高く伸ばされている。

「神様はレビのような人間を、聖書を書く人間として召してくださいました。尊く用いてくださいました。私もそうです。私もレビのような罪人で、取るに足らない人間でした。でも神様を信じた時、神様は私を神様のご用に足る者として召してくださいました。皆さんもそうです。皆さんもどんな人間でも、自分の罪を悔い改め、神様を信じるならば、神様はその人を召し、尊く用いてくださるのです」

その時、外で何事か音がした。雨が降ってきたのだ。

それはまるで時を心得たとでもいうようだった。にわかに激しさを増した雨は、鳴り止まぬ拍手さながら、会堂の屋根を叩き、窓を打った。

思い出の杉谷牧師(7) 下田ひとみ

祈りが終わった。

全員で起立して賛美歌を唱ったあと、先生の祝祷の声が会堂に行き渡った。

「願わくは、主があなた方を祝福し、あなた方を守られるように。願わくは、主が御顔をあなた方に照らし、あなた方を守られるように。願わくは、主が御顔をあなた方に向け、あなた方に平安を与えられるように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同とともにあるように」

下田ひとみ

下田ひとみ(しもだ・ひとみ)

1955年、鳥取県倉吉市生まれ。77年、鳥取福音ルーテル教会で杉谷秘伯牧師から洗礼を受ける。86年から91年にかけて沖縄本島に暮らし、現在は鎌倉市在住。逗子キリスト教会会員。著書に、『トロアスの港』『勝海舟とキリスト教』『翼を持つ者』『うりずんの風』(いずれも作品社)『雪晴れ』(幻冬舎ルネッサンス)『落葉シティ』(文芸社)。
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