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神さまが共におられる神秘(19) 共に生きるという真実を枯らさず、出会う人の中に実を結ぶ 稲川圭三

2017年7月16日06時22分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年7月13日 年間第15主日
 (典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
種を蒔く人が種蒔きに出て行った
マタイ13章1~9節

入祭のあいさつ

年間第15主日を迎えています。今日のミサの中でイエスさまは「種を蒔(ま)く人」のたとえ話をなさいます。

神さまはすべての人と共にいてくださるお方です。その神さまの真実は1人の例外もありません。「信じる」と言う者にも、「信じない」と言う者にも、「神などいない」と言う者の中にも共にいてくださるのが神さまの真実です。その真実に出会わせるために来てくださったのがイエス・キリストです。

今日もイエス・キリストが私たちに、「神さまが共にいてくださる真実」との深い出会いを与えるために一緒にいてくださいます。その真実を深く受け取り、その真実に深く結ばれて生きる1日になるように一緒にお祈りをしましょう。

説 教

今日の福音の舞台は、ガリラヤ湖のほとりです。その日、「イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来た」(1~2節)。しかし、このままだと群衆に押されて湖の中に落ちてしまうので、イエスさまは舟に乗せてもらい、少し漕ぎ出して、みんなの顔の見えるところにやってもらって、そこで「腰を下ろされた。民衆は皆岸辺に立っていた」(2節)。舟の上でイエスさまがお座りになり、民衆はみんな立って話を聞いていたということです。

日本では「教える」ことを「教壇に立つ」という言い方をします。しかしユダヤの文化では、先生は「座る」のが教えるスタイルでした。だから、「イエスは舟に乗って腰を下ろされた」というのは、「やれやれ」と座られたという意味ではなく、「教え始められた」ということです。

「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」(3節)。そして語られたたとえが今日の話です。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」(3~9節)

今日、イエスさまは湖の岸辺の群衆に向かって、「神の言葉」を蒔いたのです。蒔かれた神の言葉というのは、「神が共におられる」という真実との出会いへの招きです。イエスさまは、「神が共におられるという真実」に完全に出会っておられました。神が共におられるのは、すべての人にとっての神の真実です。それで、すべての人がその真実に出会うよう、イエスさまは神の言葉を蒔かれたのです。

でも、蒔かれた言葉とその人との間に何の関わりもないうちに鳥が来て、その種を食べてしまう、持っていってしまう。これが1つ目です。

2つ目は、「神が共におられる」と聞いて、「それは素晴らしい」と思い、関わり始めるけれど、そのことで何かちょっと自分に不都合なことがあると、すぐ身を引いてその関わりを枯らしてしまう。

3つ目は、「神が共におられる」という言葉を聞くけれど、いろいろな思い悩みとか、仕事や勉強、健康、家族、進学、就職、そういうことで頭がいっぱいになって、「神が共にいてくださる」という真実との出会いを窒息させてしまう。

4つ目は、「神が共におられる」というその真実に来る日も来る日も出会い続けて生きる。そして、それは実を結んで100倍、60倍、30倍にもなったという話です。

なんで100倍になるのでしょうか。それは、「神が共におられる真実」を受け取り、出会って生きる時、今度は私たちが出会う人の中に「神が共におられる」という真実を見る人になるからです。出会う100人の内に「神が共におられる」という神秘を見いだし、それを告げるなら、それが100倍の実りにつながっていきます。

イエスさまは「神の言葉」を蒔きました。しかし、蒔かれた言葉とは、単なる情報ではありません。イエスさまはご自分のいのちそのものをみんなの中に蒔いたのです。神さまが共におられるという「知識」を蒔いたのではなく、イエスさまは、「神が共におられる」という真実に出会っておられるご自分のいのちの真実を一人一人に向かって蒔いたのです。ご自分の死と復活を通して、すべての人の中にご自分のいのちを蒔かれたのです。

イエスさまは今、死と復活を通して、すべての人と共にいてくださいます。すべての人と一緒の向きで生きてくださるのです。それが「あらゆる土地に種が蒔かれる」というたとえの意味です。そして、私たちがそれを受け取らせていただく時、「実を結ぶ」のです。

イエスさまは今日、私たち一人一人の中に蒔かれている。生きてくださっている。だから、その真実を私たちも受け取って、そのイエスさまのいのちの中に入って生きなくてはなりません。

蒔かれたのがただの種であったなら、鳥に食われたり、枯らしたり、茨に覆われたりしても、「まあ仕方ない」と思うかもしれません。だけど、私たちの中に一緒にいてくださるイエスさまを鳥に食べさせていいのだろうか。一緒にいてくださるイエスさまを、ちょっと芽を出させただけで、枯らしてしまっていいのだろうか。一緒にいるイエスさまを、茨で覆いふさがれて窒息死させてしまっていいのだろうか。よくないと思う。そうでなく、一緒に生きなければいけないのではないでしょうか。

いつも同じ話になって恐縮ですが、今年3月に亡くなった父が私の中で一緒の向きで生きていると思っています。そして、それは真実です。その真実を鳥に食われてなくしてしまうようなことが絶対あってはならない。また、何か不都合があった時に、父が共にいることを忘れ、枯らしてしまったりするようなことはあってはならない。父が一緒にいることを、茨で覆われて窒息させてしまったりすることがあってはならない。心からそう思います。

そのように、一緒にいてくださるイエスさまを「持っていかれたり」、「枯らしてしまったり」、「窒息させてしまったり」してはいけません。だから、一緒にいてくださるイエスさまの中に私も入って、一緒に生きていきたいと思います。

今、ここにいる皆さんの中にも、愛する人をすでに亡くされて、その方が「自分の中に生きている」という方が大勢おられるでしょう。その方のいのちを鳥に食べられたりしたらいけないでしょう?ちょっと芽を出しただけで、枯らしてしまってはいけないでしょう?何かに覆われてしまって、その出会いを窒息死させてしまってはいけないでしょう?

そうではなくて、いつも一緒に生きなくてはならないのではないでしょうか。そのように、今日共にいてくださるキリストと一緒に生きるように呼びかけを受けているのです。

一緒にいてくださるキリストに結ばれて、今日出会う人に、「神さまがあなたと共におられます」「キリストが復活しておられます」と祈って生きる一日になりますように。お祈りしましょう。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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