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神さまが共におられる神秘(18)人のために生きる「安らぎ」を幼子のように受け取る 稲川圭三

2017年7月9日05時22分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年7月6日 年間第14主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしは柔和で謙遜な者である
マタイ11章25―30節

説 教

今日は先々週とまったく同じ福音の箇所になります。大切な箇所を深く受け取らせていただきたいと思います。

今日の箇所を読んで、ある人が質問しました。「どうしてイエスさまは休ませることがおできになるのですか」。それはイエスさまが、私たちに与えようとする「安らぎ」の中におられたからです。その「安らぎ」とは、父である神との完全な一致から来る「安らぎ」です。

今日の福音の中でイエスさまは、ご自身と神さまとの関係をこう言い表しています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています」(マタイ11:27)

「任せられている」という言葉はギリシャ語で「パラディドーミ」ですが、「十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)「罪人たちの手に引き渡される」(45節)「息を引き取られた(ご自分のいのちのすべてを父にお渡しになった)」(ヨハネ19:30)というように、「引き渡す」という訳で何回も使われています。

つまり、父はご自分のすべてをイエスさまに引き渡し、イエスさまもご自分のすべてを引き渡しておられます。それが父である神さまとイエスさまとの関係です。そこから来る安らぎで「休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われるのです。

イエスさまは、自分をささげて人のために生きた方でした。「人のために使われた時間」「労力」「人のために生きたいのち」、それがイエスさまでした。そのことを幼子のように受け取って生きる者は、その安らぎにあずかるというのが今日の福音です。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(25節)

「知恵ある者」「賢い者」は、自分の頭の中で理解しようとするかもしれません。しかし「幼子のような者」は、自分が相手のいのちの中に入ってしまいます。私たちは年齢を重ねるにつれて知恵や理解が増し、自分の頭の中で理解しようとしますが、幼子は相手の「そっち」に行って、相手になりきってしまうようなところがあります。

私は昔、小学校の教員をしていて、週に1回、15分くらい、全校生徒が一斉に体育をやりました。「太鼓をババンとたたいたら、皆は一斉にロケットになるよ」と言って太鼓をたたくと、皆が「ヒュ~ウ~」と言ってロケットになります。「次は飛行機だよ」「ババン」「ヒュ~ウ~」と、低学年の子どもたちは飛行機になっちゃうんですよね。でも、6年生とか5年生になってくると、2、3人ずつ固まって、「やってらんねえよなあ」という子も出てきます。しかし、幼子のような者たちは、すぐにそれになりきってしまいます。

考えてみたら、イエスさまの神秘というのも、「これはわたしの体である。食べなさい」と言われるのです。それにどうやって出会うのでしょうか。「なぜこれが体であるのか」と理解して、頭の中で出会うのではありません。イエスさまが「これはあなたがたに引き渡されるわたしの体、食べなさい」と言われたから、「分かった」と、幼子のように食べるのです。

ところで、今日の後半。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:28~29)

イエスさまは「わたしの軛を負いなさい」と言われます。それは、イエスさまが隣で一緒に負ってくださるという、ありがたい軛です。

イエスさまは軛を負うことの熟達者なので、重い荷を負う時の呼吸、足の運び方、力の使い方を知っています。だからイエスさまと一緒に軛を負うと、少しずつそれが私たちに会得されていきます。

実際、私たちは、イエスさまが隣で軛を負ってくださるのを見ることはありません。でもそれは、具体的に一緒に歩いてくれる誰かを通して知るのではないでしょうか。そのことをよく表しているのが、「エマオの弟子」という物語です(ルカ24:13以下参照)。

復活の日、2人の弟子は、イエスさまが死んでがっくりしてエルサレムからエマオに帰る途中でした。ところがイエスさまご自身が近付いてきて、一緒に歩き始められたのです。でも彼らの目は閉じられていて、それが「イエスだとは分からなかった」(16節)。そこでイエスさまは一緒に歩きながら、聖書全般にわたってご自分について書かれていることを説明されたのです。それは「苦しみを通して栄光に入る」という道でした。

2人は目指す村に着いたけれど、イエスさまはなおも先に行かれる様子だったので、無理に引き留めて一緒に泊まります。そして夕食の時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、2人にお渡しになると、2人の目が開いてイエスだと分かった。すると、「その姿は見えなくなった」(31節)。

どういうことでしょうか。「あ、あなただ」と分かったら、その人はイエスさまと同じ顔と体の向きで共に生きるいのちになるので、「その姿は見えなくなった」のです。

そうすると今度は、その人が誰か重荷を負っている人の隣に行って、一緒に歩く人になります。そして、一緒に歩いてもらった人が、その人の中におられるのが「イエスだ」と気付いたら、今度はこの人が、誰か重荷を負ってうめいている人の隣に行って、一緒に歩くようになる。それが、イエスさまがおっしゃっている福音であって、派遣です。苦しみを通して栄光に入るのです。私たちはこのことのためにいつも呼ばれているのです。

私たちはイエスさまに直接お会いしたことはありません。でも、私のために自分の時間を割いてくれた人がいます。私の重荷を一緒に負ってくれた人がいます。私の心配を自分のこととして一緒に心配してくれた人がいます。その人を通して、そこに働いてくださったのがキリスト、「あなただ」と分かった時、私の中にもキリストが復活しておられることに出会うのです。

今日、神さまが私たちと一緒にいてくださいます。そして、その中に復活のイエスも一緒の顔と体の向きでいてくださいます。私たちはその真実に入らなければなりません。

どうやって入ればいいのでしょうか。こう書かれています。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)。愛するということは「その人と一緒に生きること」です。

イエスさまがおっしゃったのは、「わたしが愛したように、互いに愛する」ということです。「わたしが愛したように」とは、「私たちの中に神さまが共におられる」という真実をイエスさまが見いだしてくださったということです。

だから私も人の中にその神秘を見いだす。「神さまがあなたと共におられる」と言う。祈る。告げる。それがイエスさまを愛することであり、イエスさまと一緒に生きることです。それをすることが、イエスさまの軛を負うことです。

相手の中に神さまを見いだす「荷」は軽く、練習するとたくさん負えるようになります。でも、相手の中に悪を見いだす「荷」は重く、いずれ身動きができなくなってしまいます。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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