神さまが共におられる神秘(17)「家族を愛する」と言いながら、神の真実を見ない時 稲川圭三

2017年7月2日05時39分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年6月29日 年間第13主日
わたしのために命を失う者は、それを得る
マタイ10章37~42節

説 教

今日の福音の箇所ですが、「わたしにふさわしくない」という言葉が冒頭からいきなり3度も繰り返して言われます。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(37節)
「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(同)
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)

「ふさわしくない」と言われると、何か「分不相応」「身分が違う」という響きがあって、つっぱねられたような感じをお受けになった方もあるかもしれません。また、「自分はどうせ別物だ」と感じて身を引いてしまいたくなる思いにかられた方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、イエスさまはここで私たちを裁いているのではないのです。また、資格や能力で合格ラインを引いて、「足切り」しようとされているのでもありません。イエスさまはご自分と出会ってほしいと深く望んでおられるのです。

この「ふさわしい」という言葉ですが、ギリシャ語では「アクシオス」という単語が使われていて、天秤量りのように、自分の重さで反対側の天秤皿を引き上げるものという意味があります。つまり、「ふさわしい」とは同じ重さだということです。

冒頭の言葉をひっくり返して言うと、「父や母、息子や娘よりもわたしを愛する者」、また「自分の十字架を担ってわたしに従う者は、わたしと同じ重さになる」ということです。そしてその重さとは、永遠のいのち、「神のいのちの重さそのもの」です。しかし、愛さないなら、その重さにあずかれないのです。

ここで自分にその重さがあるかないかが求められているのではありません。なぜなら、人間はもともと、自ら永遠という重さなど持っていないからです。ここで求められているのは資格や能力ではなく、「関係」です。いのちにあずかる関係に入ることが求められているのです。

ご自分を愛して、同じいのちの重さにあずかってほしい。ご自分と同じ重さになってほしいと、イエスさまは今日の福音で話されるのです。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。このイエスさまの言葉の意味は、「イエスさまよりも父や母を愛する者は、イエスさまと同じ重さではない」ということです。イエスさまと同じ重さになれないのです。なぜなら、イエスさまと出会って、イエスさまの重さにあずかることができないからです。

しかし、どう説明されてもしっくり来ないという方も多いのではないかと思います。なぜなら、私たちにとって自分の父や母を愛することは大切なことであって、モーセの十戒でも「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)と教えられているように、それは神からの掟(おきて)とされているものだからです。

「イエスさまよりも父や母を愛する」と言われても、「イエスさまを愛する」ことと「父や母を愛する」ことは一緒なのではないかと違和感だけが残り、何だか意味が分からなくなってしまうのではないでしょうか。ここで、「イエスさまを愛する」とは何か、また、「イエスさまよりも父や母を愛する」とはどういうことかを少し整理して考えてみます。

その前にまず「イエスさまとはどなたであるか」ということを確認する必要があります。イエスさまとは、「インマヌエル」、つまり「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と呼ばれるお方です。イエスさまとは、「神が我々と共におられる」という目に見えない神秘の、目に見える「しるし」なのです。平たく言えば、イエスさまを見ると、「ああ、本当に神さまは人間と共にいてくださるお方なのだ」と分かる。そういうお方です。

またイエスさまは、人間一人一人の中に「神が共におられる」真実を見てくださったお方です。罪人にも、徴税人にも、娼婦にも、病気で汚れていると思われていた人にも、罪の女と呼ばれていたマグダラのマリアにも、その存在の最も奥深くにあるのは罪ではなく、「神が共におられる」という神秘であることを見いだしてくださったのです。だから、見いだしていただいた人たちは、その神秘に出会って救われたのです。

「このお方を愛する」とは、このお方の掟を守るということです。その掟は単純です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。これを守ることがイエスさまを愛することです。

「イエスさまが弟子たちを愛した愛」とは何でしょうか。それは、弟子たちの内に「神さまが共におられる」という神秘を認めてくださったことです。その愛で互いに愛し合う。つまり、出会う人の中に「神さまが共におられる神秘」を認め合うことが「イエスさまを愛する」ことなのです。

では、「イエスさまよりも父や母を愛する」とはどういうことでしょうか。それは愛する量や順位の問題ではなく、実は「イエスさまを愛さない」ということなのです。つまり、「父や母を愛する」と言いながら、父や母の内に「神が共におられる真実」を忘れていること、祈らないこと、認めないことが「イエスさまよりも父や母を愛する」ことの内実です。そして、それはすなわちイエスさまを愛さないことと同じです。この時、イエスさまの重さにあずかれないのです。

「わたしよりも息子や娘を愛する」とは、「息子や娘を愛する」と言いながら、息子や娘の内に「神が共におられる真実」を忘れていること、祈らないこと、認めないことで、それはすなわちイエスさまを愛さないことなのです。

人間的に見て、どれほど息子や娘を大切にしているように見えても、息子や娘の内に「神が共におられる神秘」、つまり、永遠のいのちがあることを認めないならば、祈らないなら、イエスさまを愛し、本当に息子や娘を愛することにはならないのです。

そして、イエスさまを愛さないなら、イエスさまと1つの重さにあずかれない。イエスさまよりも息子や娘を愛する時、イエスさまの重さにあずかれない。

「そうなってはならない」とイエスさまはおっしゃるのです。なぜなら弟子とは、イエスさまと同じ重さにあずかる者のことだからです。イエスさまの望みは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と言われたように、すべての人がご自分の弟子になることです。ご自分と1つのいのちの重さにあずかってほしいと望んでおられるのです。

「弟子」とは、イエスさまと同じ重さにあずかる者です。そして、イエスさまの言いつけに従う者です。イエスさまの言いつけとは、イエスさまが愛したように互いに愛し合うことです。イエスさまが愛した愛とは、人間の中に「神が共におられる」という真実を見続けてくださったことです。

そして、私たちがイエスさまの言いつけに従って、出会う相手の中に「神が共におられる」という真実を見続ける時、祈り続ける時、その業を行っているのは自分ではなく、自分の内におられる主イエス・キリストご自身なのだと分からせていただくのです。

その時、本当に自分のいのちがイエスさまのいのちと同じ重さとされている神秘に出会わせていただき、今度はその重さと出会わせるために世の中に派遣されていくのです。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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