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ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(35)戦後の竪穴住居

2017年5月17日17時26分 執筆者 : 社会鍋100年調査隊 印刷
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関連タグ:救世軍社会鍋

戦後の竪穴住居
横浜小隊 M田さん

第2次大戦後、横浜では復員してきたおじさんたちが、穴ぐらを掘って生活していた。今でいうホームレスだが、当時は乞食とか浮浪者と言っていた。戦地に行った人や、軍隊から帰った人などで、生きられる生きられないは関係なく、とにかく着の身着のままで横浜にたどり着いた人たちだった。日ノ出町から伊勢佐木町まで、道の辺りにたくさんいたという。当時の様子を知るM田さんに話を聞いた。

「やあ、ダンナ~」

おじさんたちは、昼間は関内駅の近くの吉田橋近辺で、ザルを持って立っていた。「『おじさ~ん、金おくれ~。穴開いた、金おくれ~』『ザル持って吉田橋~』という歌があったけど、そんなふうに、おじさんたちに通行人がお賽銭(さいせん)みたいなのを出したりしていた。常時3~4人は橋の上にいたよ」とM田さんは当時の様子を振り返る。

その頃、M田さんは横浜市立大の学生だったが、たまに吉田橋を通るときがあった。その時は、手を挙げて「元気かい?」と、おじさんたちに声を掛けていたという。彼らは、M田さんを見つけると、「やあ、ダンナ~」とあいさつする。M田さんは、救世軍の奉仕をしていたため、乞食の人たちとは知り合いだった。「それで、一緒に歩いていた友達から、『お~、すげえな』と言われていたもんだよ」とM田さん。

穴ぐら生活者

穴ぐら生活者は、人が1人やっと入れるくらいの竪穴を掘って、その上に筵(むしろ)などで蓋をしていたという。自分で穴を掘るため、その穴は小さい。寝るときは、一番小さい形になって座ったまま寝ていたという。そして、昼間は外に出て、吉田橋辺りまで出掛けていた。

真冬になると、昼間は外にいても寒いから、着られる物を全部着て、おじさんたちはお互い身を寄せてくっつき合っていたという。そういう人たちが何人かずつ、あちこちに固まっていた。また夜は、木炭の袋などを体に巻いて、それぞれの竪穴の中に入って寝ていた。

M田さんたち救世軍は、その穴の一つ一つに呼び掛けて回ったという。一般の貧民街には食券を配っていたが、この人たちには食券では間に合わないため、食べ物を渡していた。持って行く方も人手が足りないので、2人か3人で行く必要があった。

しかし、車があるわけでもないし、自転車もなかった。雪の積もっている日は特に大変で、寒さでブルブルと体が震えた。しかし、こういう時でも、素手で配った。「そりゃ、冷たい思いをしたね」と松田さんは言う。

「逆に暑い日は、息を吸うと、うわ~っとくるんだよ、臭いが。穴には何もないから、体と水の臭いがする。臭い原因はそれだった。寒いときは、体から立ち上るもやもやという臭いはあまり感じない。竪穴の中は小さいから私らは入れないが、臭いが立ち上がってくるんだ。だけど、だんだん鼻で息をしない技術も身につけていったんだよね」

ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(35)戦後の竪穴住居
(絵・太田多門)

ダラ焼きと社会鍋

彼らは火の気のない生活をしているため、温かい食べ物は何もなかった。それもあり、給食の温かいうどんが喜ばれたという。メリケン粉を練って溶かして鉄板で焼くダラ焼きも好評だった。これはM田家での呼び方で、ダラッと焼くからダラ焼きと言った。

ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(35)戦後の竪穴住居
(絵・太田多門)

救世軍といえば社会鍋だ。12月になると人通りの多い通りに鍋を置いて、演奏やアピールをしながら募金をする。横浜では、伝統的に吉田橋のたもとが社会鍋の場所だった。真冬で寒かったから、その頃は分厚い外套を着て行っていた。橋のそばなので、背中から川風が吹いて来る。寒い中だったが、トイレがなく、あったとしてもトイレに行く交代要員がいなかった。

M田さんは、就職してからは、会社が終わるとすぐに募金に行っていた。昼間は救世軍の小隊長が担当し、夜はM田さんが交代した。夜9時ごろに、他のメンバーが最終の募金を集めに来るが、それまではM田さん1人だった。

吉田橋がそのうちに使えなくなり、関内駅や、伊勢佐木町でも行った。もと松坂屋デパートがあった場所の前だ。その頃、伊勢佐木町を歩くといっても、夜は、まず通行人がいなかった。戦後、デパートは皆進駐軍に接収されていた。松坂屋は、その頃は米軍の病院だった。占領していたアメリカ兵はいたが、夜は日本人はいないから閑古鳥が鳴いていたという。

ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(35)戦後の竪穴住居
(絵・太田多門)

野戦と街頭給食活動

救世軍で野戦と言っている路傍伝道は、伊勢佐木町辺りで行っていた。街頭給食活動をし、貧民救済を行っていた。桜木町の駅前は温かいため、浮浪者がたくさんいた。そこで、「夜、給食を食べに来なさい」と、前の日に切符を配ったりした。「この日は先着50人とか、次はまた50人とかに分けて、券を持ってきた人にうどんをあげていたのです。丼も、50個や100個はありました」とM田さんは語る。

それらは、社会鍋で集まった募金によって賄っていた。12月に募金を集めながら、片方では、どんどん街頭給食をしていた。このくらいお金を使って大丈夫か、足りるかと、毎日勘定しながらやっていたという。

大体、1晩で50人分以上は食べてもらっていた。毎日は難しいが、何日と何日と日を決めて行っていたのだ。女性は食事作りを担当し、男は鍋や丼を洗ったりした。そういうことを、救世軍ではずっとやってきた。「貧しい時代でも、道行く人たちは皆よく献金してくれていましたよ。ほとんどが10円玉で、50円なんて滅多にない。それでも大勢が入れてくれていた。あの頃は、お金はいくらでも集まった。暮れだけで700万円くらい集まった時期もあったね」とM田さん。

しかし、今は数千人に1人くらいしか入れてくれないという。ここではできないとか、楽器を鳴らせないなどの道の規制も厳しくなった。だが、今でも、毎年2、3万ずつ入れてくれる人もいる。「それほど豊かという感じではない人が毎年入れてくれるね。ありがたいものだよ」。M田さんはそう言って、感慨深げにうなずいた。

ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(35)戦後の竪穴住居
(絵・太田多門)

(文・社会鍋100年調査隊)

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ボランティア100年やってます

【書籍紹介】
「社会鍋100年調査隊」編『ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―

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