神さまが共におられる神秘(10)場所を超えた場所、時を超えた永遠に共に生きる 稲川圭三

2017年5月14日06時08分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
Facebookでシェアする Twitterでシェアする
関連タグ:稲川圭三

2011年5月22日 復活節第5主日
 (典礼歴A年に合わせ6年前の説教の再録)
わたしは道であり、真理であり、命である
ヨハネ14章1~12節

入祭のあいさつ

今日は復活節第5主日を迎えています。イエスさまは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。私たちはイエスさまに目を向けるとき、イエスさまという道を通って父である神さまのところに結ばれます。イエスさまを通して、場所を超えた場所におられる父である神さまのところに結ばれます。今日も、聖霊によって、主イエスを通して、父である神さまのもとに1つに集まることができるように、一緒に祈りたいと思います。

説 教

今日、私たちが聞いたヨハネの福音書14章はどういう箇所なのでしょうか。最後の晩餐、つまり、イエスさまは自分が明日死ぬことになると分かっておられた晩の食事の席での出来事です。イエスさまは最後の食事にあたって、弟子たちに切々と話されたのです。その席上で、イエスさまが弟子たちを愛して、愛し抜かれて、お話しになった言葉が、今日の言葉です。そのことをまず私たちは受け取るところから始めたいと思います。

そこでイエスさまは弟子たちに言われます。「心を騒がせるな」(1節)。なぜ、こう言われるのでしょうか。それは、弟子たちが心を騒がせていたからです。

私たちの心は今、いろいろな心配事の中にあって騒いでいるでしょうか。もし騒いでいるなら、その私にイエスさまご自身が今日、「心を騒がせるな」とおっしゃっています。神さまのお言葉として聞かせていただきましょう。

ところで、なぜ弟子たちは心を騒がせたのでしょうか。それは、イエスさまが弟子たちに話したことによってです。イエスさまは何を言われたのでしょうか。弟子たちにこういうことを言われたのです。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』・・・わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ13:33、36)。

イエスさまのこの言葉を聞くとき、人間の思いからすると、そこには飛び越えがたい深い淵のような、乗り越えがたい高い壁のような、大きな隔たりが感じられます。弟子たちの心を騒がせるに足る大きな断絶です。

「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたとき、弟子たちは置いてきぼりにされてしまうような不安を味わったかもしれません。イエスさまと離れてしまうという恐れです。私たちは「共にいる」という関係を、普通、場所や空間の概念から理解しているからです。

また、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたとき、ペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言います。ペトロは人間の思いのすべてで、「今、ついて行く」と言っているのです。しかし、イエスさまはそのペトロに、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(38節)と言われます。

ペトロは、人間の思いの「今」に自信を持っていました。しかしイエスさまは、そうではない真実について語られます。「今」と「後で」の間に何があるのか。「時」の概念においても人間の理解を超えています。

このようなことを聞いて弟子たちは心を騒がせました。弟子たちは、イエスさまがどこへ行くのか分からない。「今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」という、その時の隔たりも分からない・・・。

私たちは、世界を場所(空間)や時によって理解し、生きている存在です。だから、イエスさまの言葉に心を騒がせました。まるで弟子たちとイエスさまの間が切り離されてしまうように思われたからです。

しかしイエスさまは、私たちを天の御父のもとに迎えるため、場所を超えた場所、そして、時を超えた時である天の御父のもとに私たちを1つに集めるために去っていかれるということをお話しされています。だから、「心を騒がせるな」と言っておられるのです。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14・1)と言っておられるのです。

私たちは、いつも「いのち」につながっていたいのですが、どこを向いたらいいか分からなくなってしまう時があるのではないでしょうか。どこを向いたらいいのか、どこに向けばいのちとつながれるのか、分からなくなってしまうことがあるかもしれません。愛する人を亡くした時、わたしたちはそのことを一番はっきりと体験します。

でも、今日イエスさまがおっしゃるのは、「わたしは道であり、真理であり、命であり、私を通って父のところに行く」(6節参照)ということです。だから、イエスさまに私たちが向かわせてもらえばいいということです。そのお方に目を向けさせていただければいいということです。

そして、そのイエスさまはどこにおられるかというと、そのことが分かりにくい私たちのためにはっきりと教えてくださっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)。イエスさまは、私たち一人一人と共にいてくださるお方です。一緒の向きでいてくださるのです。だから、そのお方に私たちが目を向けるとき、私たちは天の御父のところにつながれます。場所を超えた場所、時を超えた時に結ばれるのです。「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)と言われるとおりです。

いつも同じ話だけど、私の目の前にいる方、隣にいる方、家に帰って一緒に過ごす時間の多いあの方に、「神さまがあなたと共におられる」と心の目を向けたとき、私たちは場所を超えた場所に導かれ、時を超えた時――永遠に結ばれるのです。今日もまた新たな心で、私の周りのあの方に、「神さまがあなたと共におられる」というお祈りを新しく創って、イエスさまが私たちを招かれる場所――「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(ヨハネ14・10)という、場所を超えた場所に私たちも招かれて、そこで1つになるように私たちも祈りたいと思います。

亡くなられた方々のためにも祈ります。「神さまがあなたと共におられます」と祈ったとき、私たちはその方のいのちと、場所を超えた場所、時を超えた永遠において、「今日」結ばれ、一緒に生きるいのちとなるのですから、一緒にお祈りをしたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
この記事が気に入ったら「フォロー」しよう
フェイスブックで最新情報をお届けします
関連タグ:稲川圭三

関連記事

クリスチャントゥデイからのお願い

いつもご愛読いただき、ありがとうございます。皆様のおかげで、クリスチャントゥデイは月間40万ページビュー(閲覧数)と、日本で最も多くの方に読まれるキリスト教オンラインメディアとして成長することができました。

記事の一つ一つは、記者が取材をして書き上げ、翻訳者が海外のニュースを邦訳し、さらに編集者や校閲者の手も経て配信しているものです。また、多くのコラムニストや寄稿者から原稿をいただくことで、毎日欠かすことなくニュースやコラムを発信できています。

この日々の活動を支え、より充実した報道を実現するため、読者の皆様にはぜひ、祈りと共に、サポーターとして(1,000円/月〜)、また寄付(3,000円〜)によって応援していただきたく、ご協力をお願い申し上げます。支払いはクレジット決済(Paypal)で可能です。希望者には、週刊メールマガジンも送らせていただきます。サポーターや寄付の詳細、またクレジットカードをお持ちでない方はこちらをご覧ください。

  • 金額を選択:
  • 金額を選択:

コラムの最新記事 コラムの記事一覧ページ

主要ニュース

コラム

人気記事ランキング