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神さまが共におられる神秘(9)キリストという「門」を通って愛し合う 稲川圭三

2017年5月7日05時59分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年5月11日 復活節第4主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
 私は羊の門である
ヨハネ10章1~10節

説 教

今日読まれた箇所をお聞きになって、意味がよく分からなかったかもしれません。それはヨハネの福音書の構造から来るものです。実は9章と10章はセットになっていて、9章との連続で読んだときに10章の意味が分かるような構造になっています。

9章には、生まれつき目の見えなかった人をイエスさまが見えるようにするという出来事が書かれています。それなのに、ファリサイ派の人々は、イエスが「神からの者」だとは信じないで、「罪ある人間」だと決め付けていました。その彼らに対してご自分が何者であるかを、イエスがたとえをもってお話になったのが今日の箇所です。

イエスは「わたしは羊の門である」(7節)とたとえています。たとえというのはそもそも、誰もがよく知っていることを元にして、より深い真理を導き出そうとする話し方です。例えば、「太陽は東から昇るだろう。だから、それと同じように・・・」と進んでいくのがたとえなのですが、私たちはその前提となる「羊の門」をよく知らないので、ここではたとえが成立しないかもしれません。そこでまず「羊の門」を簡単に説明します。

羊飼いたちは、昼間は羊たちを連れ出して、おいしい牧草やきれいな水のある場所に導き、羊たちを養います。夜になると、羊を「羊の囲い」(1節)に入れ、羊が散り散りにならないように、またオオカミなどの外敵や、羊を奪っていこうとする盗人から守りました。「羊の囲い」とは、石を組んで塀のように積み上げて四方を囲み、1つだけ出入り口を開けておくというものです。その出入り口が「羊の門」と呼ばれるものでした。

羊飼いたちは夜の間は羊をその中に入れて門を閉じ、朝になったら門を開き、また自分の羊の名前を呼んで連れ出す。羊飼いは、おいしい牧草に羊たちを導いて、また羊の囲いに戻すという日々が繰り返されたのでしょう。その出入り口が「羊の門」です。

イエスは、「わたしは羊の門である」とご自分のことをたとえました。この「羊の門」にイエスさまは2つの意味を持たせています。

1つ目は、門を通る者が正しい羊飼い、指導者であり、門を通らずに他のところを乗り越えてくる者は盗人であり強盗であるということです。つまり、「羊の門」とは、正しい指導者と偽りの指導者を判別する存在です。

もう1つのことは、羊がそこを出入りして牧草という食べ物を見つけるということ。つまり「羊の門」とは、いのちに通じる入り口という存在です。

イエスさまを通して、その指導者が正しい者か、盗人や強盗であるかが明らかになる。また、イエスさまを通して、私たちは豊かにいのちをいただく。イエスさまはそういう存在であると「羊の門」のたとえは語っています。

私たちが人々を教え導く指導者という立場にあるにせよ、羊のように世話を受けながら養われる立場であるにせよ、ただ1つの必要なことは、門であるキリストを通るということです。キリストを通るとき、いのちを豊かに得、キリストを通るとき、正しく導くことができます。もしキリストを通らなければ、「盗人であり、強盗である」(1節)という存在になってしまう。

今日の福音の中で1つだけ、特に深めて考えたいことがあります。私たちが「門であるキリストを通る」とはどういうことなのでしょうか。そのためにはまず、キリストがどなたであるかを知る必要があります。

キリストは「インマヌエル」と呼ばれるお方、「神がわれわれと共におられる」という真実を生き、出会う人の中にその真実を見てくださったお方です。だから、このお方を通るとき、私たちは出会う人一人一人の中に神のいのちがあり、一人一人が、神がお住まいになっている神殿であるということを受け取って生きることになります。これが「キリストを通る」の意味です。

私たちがキリストを通らずに人に出会うなら、どうなるのか。相手の中に神の永遠といういのちがあることを見いださずに出会うならば、それは究極的には、「盗人であり強盗」という存在なのだと言うことができます。厳しい言い方になっているかもしれませんが、真実です。

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(10節)

私たちが出会う人一人一人の中に神さまがお住まいになっている真実を見て生きないならば、その人のいのちを「自分のために利用する」ような関係に陥ってしまう。それを「盗む」と言ってよいと思います。

「屠る」とは、食べるために殺すことです。嫌な言い方ですが、相手の中に神が共におられる真実を見ないならば、「相手を食いものにする」ような関係になってしまう。それを「屠る」と言ってよいと思います。

私たちが相手の中に神さまがお住まいになっている真実を見て生きないならば、自分の満足のために、相手のそのままを認めず、相手を滅ぼす関係になってしまう。それを「滅ぼす」と言ってよいと思います。

キリストは私たちの中に永遠といういのちの尊厳があることを見て、出会って、生きてくださったお方でした。だから、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)と言われるのです。人間の中には決して滅びることのない永遠がある。それこそが受け取るべき真実。また、それこそが受け取られるべき真実。それがキリストの教えです。

しかし、そのことを受け取らないならば、私たちは人と会うとき、自分のいのちのために相手のいのちを奪って利用する関係に陥ってしまいます。また相手を屠って、食いものにする関係になってしまいます。あるいは、自分の満足や安定のために相手を滅ぼす関係になってしまいます。それは本当のいのちのありようではありません。

キリストは「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(9節)と言われました。キリストの教えとは、その門であるキリストご自身が「私たち一人一人と共にいてくださる」ということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われるのです。そして、キリストの聖体にあずかる者は、「キリストの体を食べる」というしるしを通してはっきりとそのことに出会わせていただきます。そのとき、キリストご自身が私たち一人一人の中に同じ顔と体の向きで立ってくださるのです。

だから私たちも、その門を通って相手を見る。その門を通って、相手の中に永遠のいのちがあるという、その目に見えない真実を見させていただいて愛し合う。これが、キリストが今日、私たちに教えてくださっているいのちの道です。

今日私たちが出掛けていく先で、出会う人の中に、「神があなたと共におられます」という祈りを注ぐなら、そこには豊かないのちがあるでしょう。そして、もし出会った2人がお互いに「神さまがあなたと共におられます」と祈り合うならば、どれだけの恵みといのちがあるのでしょうか。そういう招きを私たちは受けています。「神さまがあなたと共におられます」と祈り合うことは、そんなに複雑なことではないので、ぜひキリストという門を通ってそのように生きることができますように、恵みを願いたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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