神さまが共におられる神秘(5)いのちは死のものではなく、神のもの 稲川圭三

2017年4月21日19時34分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年4月18日 聖金曜日(主の受難)
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
主イエス・キリストの受難
ヨハネ18章1節~19章42節

説 教

ヨハネの福音書から主イエス・キリストの受難の出来事が朗読されました。今日の受難の朗読の中には、はっきりとした1つの対比が描かれています。それは3回ずつ繰り返された言葉によって対比されていました。その対比とは、イエスが「私である」「私である」と言われたのに対して、ペトロが「違う」「違う」と答えたということです。

新約聖書はもともとギリシャ語で書かれていますが、その言葉を見ると、明らかな対比であることが分かります。「私である」は「エゴ・エイミ」という言葉です。「私はそうである」という意味です。それに対してペトロが繰り返した「違う」は「ウック・エイミ」という言葉で、「私はそうではない」という表現です。これは明らかな対比です。

ペトロは最後の晩餐のときに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていました(マルコ14:31)。しかし、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と人に聞かれると、「ウック・エイミ」(私はそうではない)と答えました(ヨハネ18:17、25)。このペトロの答えに私たち人間の答えが代表されています。

人間は皆、神さまの子どもです。1人残らず神さまに愛された子どもです。神さまは私たちを愛しているがゆえに、1人の例外もなく、全ての人と共にいてくださいます。私たちは神さまに愛された者です。神さまに愛されたいのちです。そのことにイエスさまは、何があっても「エゴ・エイミ」(私はそうである)と答えて生きるいのちでいらっしゃいます。

一方、私たち人間は「神さまに愛されたいのちである」というその真実に対して、すぐに「ウック・エイミ」(私はそうではない)と答えてしまうような存在です。

ペトロはどうして「ウック・エイミ」(私はそうではない)と言ってしまったのでしょうか。きっと自分のいのちの危機を感じたからではないでしょうか。ペトロは自分の身に死の危険が迫ったとき、死から逃れるために、「私はそうではない」と言いました。ペトロは、自分に死の危険が迫ったとき、「死から逃れることだけが全て」になってしまったのでしょう。ここに私たち全ての人間のありようが表されています。

しかしイエスさまは、父である神、すなわち死を超えるいのちによって結ばれているということを知っていて、そのことに信頼されました。イエスさまにとって死は最後のものではありませんでした。死がご自分に迫り、苦悩の中にあった時にも、イエスさまはご自分のいのちが「死のもの」ではなく「神のもの」であることを知っておられたのです。

私たちの身の回りにもいろいろな「十字架」と呼べるものがあります。「それがあったらもう自分はおしまいだ」と思えるものがあるかもしれません。また反対に、「もしそれがなくなったら、もう自分は終わりだ」と思えるものもあるかもしれません。

人間に終わりを突きつける、その最大のものは「死」です。「死」は私たちをおびえさせ、人間のいのちが「死のもの」だとうそぶきます。「死が最後のものである」という恐れによって人間を支配しようとするのです。

しかしイエスさまは、「死が終わりではない」ことを知っておられました。人間のいのちは「死のもの」ではなく、「神のもの」であることを知っておられたのです。

「裏切り者のユダ」という言い方をしますが、「裏切る」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「パラディドーミ」という単語が使われています。今日の箇所には8回出てきました。2回は「裏切ろうとしていた」という訳で出ています(18:2、5)。そして、あと残りの5回は「引き渡す」という訳で出てきました(18:30、35、36、19:11、16)。皆同じ単語です。2回は、ユダが裏切って敵の手にイエスさまを引き渡してしまうという意味で「裏切る」と訳されています。そして後の5回は、イエスさまを死刑にするためにユダヤ人の手に、ピラトの手に引き渡してしまうという意味で「引き渡す」と訳されています。

でも、最後の1回だけは「息を引き取られた」と訳されているのです(19:30)。8回のうち7回は「裏切って」、イエスさまのいのちを敵の手に、ユダヤ人の手に、死の手に「引き渡す」という意味で使われていました。でも最後の1回、イエスさまが「息を引き取られた」と訳されているその箇所だけは、イエスさまのいのちを「引き渡す」相手が違うのです。イエスさまはご自分のいのちを「神」に引き渡されたのです。

イエスさまの十字架の出来事は、神への信頼のしるしでした。ご自分のいのちが神に愛されたいのちで、「神のもの」であることを表されたのです。

人間のいのちは「死のもの」ではなく、「神のもの」。死んで「死のもの」にされてしまうようなものではなく、「死」を超えて、「神のもの」である。そのことをはっきりと表してくださったのが、イエスさまの十字架という神秘でした。この世のいのちの終わりである死は、「死」にいのちを引き渡すのでなく、「神」にいのちを引き渡すことであることをはっきりと示してくださったのです。

私たち人間は、ちょっとしたささいなことで「もう終わりだ」と思ってしまうかもしれません。特に若い方々は何か小さなことがあると、「もうそれでおしまい」と、生きることをあきらめてしまったりすることがあるのかもしれません。でも、イエスさまは十字架を通して、「死は決して終わりではない」ということを私たちに教えてくださっています。

十字架も終わりではない。苦しみも終わりではない。死も終わりではない。なぜなら、人間のいのちは、苦しみのものでもなく、死のものでもなく、「神のもの」だからです。

今日これから盛式共同祈願というお祈りと、十字架の崇敬という礼拝をします。イエスさまの十字架の前に頭を下げて祈ります。

私たちはすぐ「もう終わりだ」と思ってしまう人間です。神に愛された「神のもの」であるのに、そのことに「ウック・エイミ」(私はそうではない)と言って、反対に、「お前は滅びあるものだ、死のものだ」と、自分を恐れさせる要因に「はい」を言ってしまう存在です。

でも、人間のいのちは決して滅びあるものではありません。人間のいのちは「死のもの」ではありません。人間のいのちは「神のもの」。人間のいのちの行く先は、初めもなく終わりもない神さまのいのちです。そここそが、私たちが今日つながっていて、そしてそこに結ばれて完成されるいのちの行く先です。

「十字架の崇敬」を通して、私たちが神さまに信頼して歩むことができるように、恵みを願いたいと思います。そして、自分の周りにすぐ、「ああ、もうおしまいだ」と思ってしまうお友だちもいるでしょう。そのお友だちのためにも一緒にお祈りしましょう。私たちのいのちは「神のもの」。初めもなく終わりもないというお方のものです。そのことをイエスさまが教えてくださっていることに感謝をして、お祈りを続けたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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