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神さまが共におられる神秘(4)足を洗うとは、愛せない相手を愛すること 稲川圭三

2017年4月21日08時43分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年4月17日 聖木曜日「主の晩さんの夕べのミサ」
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
主イエスは弟子たちをこの上なく愛し抜かれた
ヨハネ13章1~15節

入祭のあいさつ

今日は聖木曜日、「主の晩さんの夕べのミサ」が行われます。今日、明日、明後日の3日間は「過越の聖なる3日間」と呼ばれ、3日間で1つの大きな典礼とされています。この「聖なる過越の3日間」を通して、イエスさまが私たちを死からいのちへと移す「救いの業(わざ)」を行ってくださったことを深く思い、その「救いの業」にあずかる者となるように一緒に祈りましょう。

説 教

「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。そして、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13:1、4~5)。

そこでペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いますが(6、8節)、イエスさまはこう答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)

「何のかかわりもない」というのは、「あなたは私との間に何の分け前も持たないことになる」というぐらいの意味です。ペトロが持つことができない「分け前」とは、イエスさまのいのちを受け継ぐことです。それが「できない」と言われるのです。

そこでシモン・ペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言いますが(9節)、イエスはこう言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(10節)。この言葉は何を表しているのでしょうか。「体を洗った者は・・・」というのは、どうも洗礼を意味しているようです。だから、「足だけ洗えばよい」と言っておられるのです。イエスさまは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました(14節)。

では、「互いに足を洗い合う」とは何を意味するのでしょうか。これが今日の箇所のイエスさまの中心的な命令です。私たちが今、「互いに足を洗い合う」とはどうすることなのでしょうか。そのことを今日は考えてみたいのです。

ヨハネの福音書には「最後の晩餐」という出来事が書かれていません。「取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡される、わたしの体」「飲みなさい。これは、あなたがたのために流されて、罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血。これを私の記念として行いなさい」という出来事が、マタイとマルコとルカには書いてあるけれど、ヨハネには書いてないのです。

何でヨハネには書いてないのか。この最も大切な出来事を書かずに、代わりに「弟子たちの足を洗う」という出来事を書いているのです。どういう意味でしょうか。

学者たちはこういうことを言っています。ヨハネ福音書が書かれた1世紀末ごろは、イエスをメシアだと公に言い表す者は、ユダヤ教から異端として排斥され、会堂から追放されたのです。そしてそれは、迫害による死に直結する命懸けの選択でした。そういう時代でした。

その中で、いったんイエスをメシアだと呼ぶ仲間に加わった者の中からも、脱落してユダヤ教に戻っていく人たちも出たみたいです。つまり、一緒の洗礼も受け、一緒のパンも食べた仲間がユダヤ教へ戻っていくのです。

そういう状況の中でヨハネ福音書が言おうとしているのは、イエスの弟子として歩むということにおいて最も大切なことは何かということです。「パンを食べ、杯を飲む」こと、つまり「洗礼を受け、ミサという交わりに集う」ことが大切でないとは言わない。でも、本当に最も大切なことは何かということを、ヨハネによる福音書は「イエスが足を洗った」という出来事を通して伝えようとしているのです。

そこでもう一度、「足を洗い合うとは何か」という問いに戻ります。「互いに足を洗い合う」とは、いったい何を表すのでしょうか。

「足を洗い合う」というのは、たとえ相手の行いが悪かったり、相手に良くないことがあったりしても、「その人の中に神さまがおられる」という真実を見いだし、それを受け取り合って生きることだと思います。

ただ足を洗うくらいなら、洗えばいいでしょう。それほど難しくはないかもしれない。でも、互いに「足を洗い合う」とは、相手の行いがどのようであっても、その「あなたの中に神がおられる」という真実を互いに見いだし、祈り合うこと。それが「互いに足を洗い合う」ということの意味です。私は、それ以上に大切なことなど、ないのではないかと思います。

「互いに足を洗い合う」とは、相手の中に神さまが共にいて、神さまが共にお住まいになっておられるという真実を見いだし、祈り合い、受け取り合うことです。それは決してゆめゆめ、「あなたのその態度を、私に直させてください」「あなたのその口のきき方を、私に直させてください」「あなたのその欠点を、私に直させてください」と言うことではありません。そうではなく、そのままのその人に、「神さまがあなたと共におられます」と祈り、告げ、「神さまがあなたを愛しておられる」という真実に出会うように働きかけることなのです。

それは決してたやすいことではありません。場合によっては、物理的に足を洗う方がずっと簡単な場合もあります。しかし、相手の中に神さまが共におられる真実を見いだして祈る。これがイエスさまの命令です。

そして、もう一つのことをイエスさまは言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)。イエスさまはなぜ、「後で、分かるようになる」と言われるのでしょうか。

イエスさまは弟子たちの足を洗ったのに、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。そして復活の日、弟子たちがユダヤ人を恐れて鍵をかけていた家の真ん中にイエスさまは立って、「あなたがたに平和」と言われたのです。

「平和」とは、「神が共におられる」という神の真実のことです。イエスさまは、自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちの中に「神がおられる」ことを見てくださった。その時に弟子たちは分かったのではないでしょうか。「足を洗われる」ことの意味が。

晩餐の席で、その直後にあなたを見捨ててしまうことになる私たちの内に「神が共におられる」という神の真実を見てくださった。そして今、あなたを完全に裏切ってしまった私たちの内に「神が共におられる」という神の真実を見てくださっている。これが「あとで分かるようになる」という意味ではないでしょうか。

だから私たちも、こんな自分の中に「神さまが共におられる」という神の真実を見てくださったという出会いがあるならば、私も人に「神さまがあなたと共におられる」という神の真実を見て祈るようになります。それが「互いに足を洗い合う」こと。私たちがイエスさまから望まれ、求められていることではないでしょうか。

この後、「洗足式」になります。イエスさまがまずしてくださった愛の奉仕を思いながら、お祈りしましょう。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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