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神さまが共におられる神秘(2)ばかにする人にも「十字架のまなざし」で 稲川圭三

2017年4月9日06時02分 コラムニスト : 稲川圭三 印刷
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2014年4月13日 受難の主日(枝の主日)
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
主イエス・キリストの受難
マタイによる福音書27章11~54節

入祭のあいさつ

皆さん、四旬節の初めから償いと愛の業によって身も心も整えてきた私たちは、今日からはいよいよ全世界の教会と心を合わせて、主の過越の神秘を祝うためここに集まります。キリストは受難と復活を通して救いの業を完成するために、ご自分の町エルサレムにお入りになりました。私たちに救いをもたらした主のエルサレム入城を、篤い信仰と敬虔な心で記念し、神の恵みに支えられて主の十字架を思い起こし、主の復活と新しいいのちにあずかることができますよう、主のあとに従って歩みましょう。

説 教

このイエスの受難の箇所を読んで1つはっきりと感じられるのは、「救い」ということについて、人間が考えている「救い」と、イエスさま、そして神さまが言っておられる「救い」が異なるということです。

群衆や祭司長、律法学者たちが言う「救い」の意味は、今日の福音の言葉で言うと、「今すぐ十字架から降りて、自分自身を救ってみろ。それを見たら信じてやろう」という言葉に表れています(42節参照)。群衆、祭司長、議員たちの考える「救い」とは、いま目の前にある「十字架」という困難な状況から降り、それを回避することと言うことができると思います。

それに対して、イエスさま、また神さまが私たちにお与えになろうとする「救い」とは何でしょうか。それは、「今日すでに神さまが共にいてくださる」という真実に私たちが出会うことです。それがイエスさまの言われる「救い」、神さまが私たちに望まれる「救い」です。

「神さまが一緒にいてくださる」ということは、すべての人にとっての真実です。すでに神さまは私たち一人一人と共にいてくださいます。同じ顔と身体の向きで私たち一人一人と共にいてくださる、それが神さまというお方だと思います。

マタイの福音が伝えるイエスさまとは、「インマヌエル」つまり「神は我々と共におられる」という真実を告げ(1:23)、私たちをその真実に出会わせるために来られたお方です。また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という方です(28:20)。イエスさまが告げられたように、神さまはすでに私たち一人一人と共にいてくださるお方です。1人の例外もありません。

「私はそんなこと信じない」という人にも、神さまは共におられます。「神さまが共にいるなんて聞いたこともない」という人にも、神さまは共におられます。「前は信じていたが、今はもう信じない」という人にも、神が共におられます。神さまは、共におられるというお方なのです。条件付きで共におられるのではありません。共におられるというお方なのです。

しかし、出会わせていただかなければ、その関わりを、まるでいらっしゃらないも同様に損なってしまうこともあり得る関係なのです。そのお方に私たちが出会わせていただくことを「救い」と言います。

救い主であるイエスさまは、ご自分の内に父である神がいつも共にいてくださることをはっきりと受け取り、出会い、生きておられたお方でした。そして、自分だけでなく、出会うすべての人一人一人の内に「神さまが共におられる」という真実を見ておられたのだと思います。だからイエスさまは人々に向かって「神さまがあなたを愛しておられる」ということを告げ、「神が共におられる」ことを告げ、人から罪人だと言われている人の中に「神がおられる」ことを告げ、みんなが決して触れようとしなかった人に触れて「神が共におられる」と告げ、出会わせたお方です。それがイエスさまというお方です。

イエスさまは、「神が共におられる」という真実に私たちをどうやって出会わせ、救おうとしておられるのでしょうか。「十字架」を通して、「苦しみ」を通して、「死と復活」を通して、私たちに出会わせようとしておられます。

今日の福音の中で、イエスさまは十字架にかけられて、手と足を釘に打たれます。そして皆はイエスさまをばかにして、「神の子なら、今すぐ十字架から降りてみろ。それを見たら信じてやろう」と言っている。裁判の場では、顔に唾なんか吐きかけられているのです。「神に頼っているなら、神に救ってもらえ。神の子だと言っていたのだから」と言ってばかにされています。

でもその間、イエスさまは黙っていました。黙って十字架の上で何をされていたのでしょうか。(子どもたちに向かって)歯を食いしばって我慢して、「今に天のお父さんがみんなに『仕返し』しに来るからな。それまで待っていろ」と言っていたかな(笑)。違うと思います。そうじゃなくて、イエスさまは祈っておられたと思いますよ。

ルカの福音書に、十字架の上でイエスさまが言われた言葉が書かれています。こう祈られたのですよ。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)

どういう意味でしょうか。イエスさまは自分のことをばかにする人たちのために祈ったのです。自分の手と足に釘を打った人たちのために祈ったのです。「彼らは自分が何をしているか知らない。自分の中に神さまが住んでおられることを知らない。自分たちは神の家だっていうことを知らないのです」と祈ったのだと思いますよ。これがイエスさまの祈りです。そしてそれが「イエスさまの十字架」の意味です。

イエスさまは十字架の上ですべての人のために祈ったのだと思いますよ。「あなたの中に神さまがおられるのだよ」「おられるのだよ」「おられるのだよ」・・・そのことを祈られたのだと思います。

でも、イエスさまに祈ってもらうだけでは、私たちが「神さまが共にいてくださる」という神秘に出会うにはまだ足りなかった。私たちの救いは、イエスさまの死と復活と、聖霊の降臨を通して完成されたのです。

救いの完成とは、そのように祈って十字架の上で死なれたイエスさまが、復活して「永遠」といういのちに立ち上がり、洗礼という出会いを通して私たちに聖霊が注がれ、私たち一人一人の中にイエス・キリストというお方自身のいのちが立って生きてくださるということです。この一人一人との密接な関わりを通して、私たちに出会わせたのです。

神が共におられることは私たちには分かりませんし、見えません。でも、そのことがはっきりと分かって、そのことをはっきりと見ることのできるお方であるイエスさまが、私たち一人一人の中に立って生きてくださる。これが「復活」という出会いです。このお方との密接な出会いを通して、私たちは初めて「神さまが共にいてくださる」という神秘、真実に出会わせていただくのです。それが「救い」です。

そして、その復活の出会いに結ばれたなら、今度は私たちがこの口で、この心で、この体で、人に「神さまがあなたと共におられる」と告げる者になる・・・。これが「派遣」です。そしてそのとき、神さまと同じ顔と体の向きで生きる者になる。これが「生きる」ということの本当の意味だと思います。

十字架とは1つのまなざし、相手の中に「神さまが共におられる」という真実を見いだすまなざしです。それが「十字架のまなざし」です。それを私たち知らなければならないでしょう。

よくファッションで十字架を付けている人がいますね。「ロザリオ」ってお祈りの道具ですけれど、時々街で、首に掛けている方に出会ったりもします。若い方で、ファッションでね。そうすると私たち信者、洗礼を受けた者たちはこういう言い方をすることがある。「ああ、あれはただのファッションだからね」。でも、思うのですけれど、もしそのように言うならば、私たちも「十字架のまなざし」のことが何も分かってないと思う。「十字架のまなざし」とは、相手の中に神を見いだすまなざしだからです。

だから、ファッションで十字架を付けている人をもし見かけたとき、その人に向かって「神さまがあなたと共におられる」と祈らないならば、私たちは十字架の意味を何も知らないっていうことと一緒なのだと思います。

今日、イエスさまのご受難と死を通して十字架の意味を教わっている私たちが、「神さまが共におられる」という真実に出会い、「救い」にあずかりますように。また、そのことを人に告げる者となりますように、恵みを願って一緒に祈りたいと思います。

稲川圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう)

1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員を務める。97年、カトリック司祭に叙階。現在、カトリック麻布教会主任司祭。著書に『神父さま おしえて』『イエスさまといつもいっしょ』『365日全部が神さまの日』『神さまのみこころ』(いずれもサンパウロ)など。
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