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キリシタン大名・高山右近の列福式が大阪で開かれる 5分で読めるその生涯

2017年2月8日11時29分 記者 : 雜賀信行 印刷
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キリシタン大名・高山右近の列福式が7日、大阪城ホール(大阪市)で開かれ、約1万人が参列した。カトリックでは「聖人」を崇敬(崇拝ではなく信仰の模範として大切にすること)するが、「福者」は聖人に次ぐ崇敬の対象で、右近は昨年1月にローマ教皇によって福者として認められた。

ところで、高山右近とはどのようなキリシタン大名だったのだろうか。その生涯を5分で読めるよう、まとめてみた。2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に囚(とら)われるエピソードがあったが、その出来事は右近にとっても人生の大きな岐路だったことをぜひ念頭に置いて読んでいただきたい。

高山右近は1552年、現在で言えば、京都と大阪の府境にある大阪府豊能郡豊能町高山で生まれた。やがて7歳の頃、奈良県宇陀市榛原にあった原城に移り、64年、13歳の頃に家族とともに洗礼を受けている。洗礼名は「ジュスト」。最初に父親がキリスト教に触れて洗礼を受け、宣教師のヴィレラやロレンソ了斎を原城に招いて家族を信仰に導いたのだ。

1568年、織田信長が足利義昭を15代将軍に据えるために上洛すると、室町幕府の幕臣だった和田惟政(これまさ)が摂津(兵庫と大阪が接する一帯)の高槻城主に任じられた。高山家はその下で仕えることになり、高槻城にほど近い芥川城へと転ずることになる。

惟政はキリスト教の協力者だったが、その3年後、荒木村重に敗れて討ち死にし、その後、摂津は村重のものとして信長に認められる。年若くしてあとを継いだ惟政の子、惟長は家臣にそそのかされるかたちで高山父子暗殺を企て、そのことを知った右近たちは村重と相談のうえ惟長を討った。その後間もなく右近は父から家督を譲られて、22歳にして高槻城主となる。1573年のことである。

右近は惟長と斬り合いになったとき、瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に助かったことから、以後、熱心なキリシタン大名として領内のキリスト教化に努めるようになった。

1578年、荒木村重が信長に謀叛を起こし、信長に従うよう翻意を促しに行った黒田官兵衛が有岡城に囚われる事件が起こった。これに対して非常な危機感を抱いた信長は、摂津全体が寝返らないよう、宣教師や右近に対し、キリシタン滅亡か味方につくかという二者択一を迫る。右近は、村重の人質となっていた家族や、意見が真っ2つに割れた城内のことを考え、悩み苦しんだ挙げ句、自ら城主をやめ、信長のもとに身1つで出ていった。

ところが、この結果、村重は孤立無援となり、やがて有岡城は落ち、高槻城も信長に従って開城、人質だった息子たちも無事に助かったのである。こうして信長は以後、右近もキリスト教も優遇するようになり、右近は高槻領内だけでなく、大名仲間にも大きな感化を与える存在となっていった。

信長のあとを継いだ豊臣秀吉によって、1585年、右近は領地を高槻から明石へと移された。そして、その2年後に「バテレン追放令」が出されると、右近は秀吉から棄教を迫られるのである。しかし、右近は領地を返上して、信仰を取った。その後、小西行長によって小豆島にかくまわれたのち、88年、秀吉の盟友でもあった前田利家に招かれて加賀藩で宣教と茶道の日々を送ることになる。

やがて1614年、家康によってキリシタン国外追放令が出されると、右近は家族とともにマニラに渡るが、間もなく病没。63歳だった。

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