ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(25)戦後からオリンピックまで

2016年12月27日11時38分 執筆者 : 社会鍋100年調査隊 印刷
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戦後からオリンピックまで
救世軍資料館館長 A野さん

1927(昭和2)年生まれのA野さんは、19歳になったら戦争に行く予定だった。結局戦争には行っていないが、訓練は受けたという。陸軍の教練は大変だった。機関銃の撃ち方も教わり、陸軍の学校に入るように勧められた。

しかし、A野さんは、化学の学校に進んでしまったのだった。そして終戦を迎えた。戦後、救世軍が再復興したのが1946年9月。A野さんは、47年に学校を卒業して、49年に救世軍に献身した。結局、化学分野の食料研究所にいたのは、2年間だけだった。以下、A野さんに、ご自身の献身ストーリーを語ってもらった。

こういう生き方があるんだな

献身に際して、これまで勉強したことをどうするのかという疑問も出たが、全て神様にお献(ささ)げするのだと決心したという。研究所の所長も驚いて、「なんでだ!」と引き止めた。「私は救世軍の日曜学校育ちで、大人になって自分の所属する救世軍の小隊長の、社会や人のために忙しくしている姿を見てきました。それで、こういう姿はいいなと思ったのです。説教する姿も魅力的でした」とA野さんは語る。

小隊長の家でご飯を食べるとき、A野さんたちは家から弁当を持って行った。弁当といっても、トントンと叩けば片方に寄るような弁当だが、小隊長の家のご飯は、もっと貧しく、芋の茎ばかりだった。それで、これだけ活躍しているのだから、これは大変なことだと思った。若かったA野さんは、当時は真剣に考えた上で、「こりゃ、小隊長を助けなければいかんな」「こういう生き方があるんだな」と思って献身し、士官になったのだった。

「あれはデカじゃないの」

会津若松が、A野さんの救世軍士官生活の初めだった。それから、東京の江東区。江東は焼け野原だった所から始めた。その後、上野小隊に移ったのが1956年。売春防止法が5月24日に発布になった年だ。

A野さんたちは、近くの赤線地域の吉原辺りに視察に行っていた。救世軍の制服が目立たないようにして、上にオーバーを着込んで行ったという。ちょうど、防止条例の出る前だった。すると、女の人たちが道にたむろしていた。

昔は、女の人が外でたむろすることはできなかった。皆、柵の中に入れられた籠の鳥で、表に出してもらえるのは、何か特別の時以外になかったのだ。その女たちが、A野さんたちを見て「あれはデカじゃないの」などと言っていたことを覚えているという。

昔、山室軍平たちが活動していた頃は、そのような所に救世軍が行くと、商売の邪魔をしに来たと思われ、袋叩きに遭っていた。しかしA野さんのいた頃は、そのような雰囲気はなかった。

「社長!」

救世軍の社会部長について行ったときのことである。今でももぐりみたいな商売があるが、その頃もすでにあった。A野さんたちが見に行くと、「社長!」と呼び込みされてしまうことも。その辺りで客引きしている男たちは皆、黒のスーツをちゃんと着ていた。そういうヤクザの下請けのような連中に「社長!」と呼ばれることもあった。

A野さんが上野の救世軍にいた頃は、上野の地下道が、浮浪者、今でいうホームレスで満員の頃だった。その頃は、人身売買はなくなっていたので、女性たちの問題よりも、ホームレスの問題がより深刻だった。A野さんたちが目指していたのは、上野駅付近や地下道にあふれている浮浪者たちや、山谷のドヤ街だった。路傍伝道と、給食活動を頻繁に行った。

ラーメンの屋台と

戦後すぐから昭和30年代の初め頃、上野小隊ではそのような路上生活者をよく呼んで来ていた。一晩に300人くらい来ていたという。前の晩に、券を配りに行くと、彼らは、地下道にびっしり寝ている。西郷隆盛の銅像の辺りから、駅に下りていく辺りが、彼らのたむろする場所になっていた。そこから彼らを呼んで来るために、救世軍にプロのラーメン屋を三河島から連れて来ることにしたのだ。

そして、ラーメンの屋台を2台、横付けにする。「救世軍の庭には水道がありましたからね。水道さえあれば、ラーメンはどんどんできます。ラーメン屋も喜んでいましたよ」とA野さん。黙っていても、一晩に200~300杯は出るので、ラーメン屋は懐が豊かになる。もちろん、経費は救世軍が全部支払うのだ。

表でラーメンを食べさせて、会館に入れた。中では集会が行われていた。「ああいうふうに、途中から聞いてもイエス様の恵みが分かるお話をするというのは大変だなと思って、私も聞いていました」とA野さんは語る。「それが、われわれ若い士官の課題でした。どこで区切っても心に残る話というのは難しいです。路上生活のおじさんたちは、その集会に出て、帰りには出口で蒸し芋をもらうんです」

ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―(25)戦後からオリンピックまで
1928(昭和3)年、屋台を用いて温かいうどんの配食

弁当作戦

ドヤ街も、1960年から後になってくると、東京オリンピックのための工事の日雇いがあったため、彼らを取り巻く状況もやや変わっていった。けれども、隅田川沿岸には、まだまだ段ボールの生活者が結構いた。

その頃から、救世軍も方針を変え、弁当作戦を開始した。安い弁当を作って、それで給食をして回ったのだ。自動車では、狭い横町は入れないから、自転車に弁当を積んで行く自転車作戦を考えた。重たいため、そんなに多くは積めない。そこで、部隊を組んで行くことにした。

夜は、懐中電灯を持って行く。斥候のような者が先に行って、パチパチパチと照らすのだ。すると、「あっちには5人ぐらいいるな」と確かめてから、そっちに行く。

皆で1カ所に行くのは大変なので、幾つかに分かれて行き、合図をし合う。今考えると原始的だが、皆喜んでやっていた。「何といっても、東京オリンピック前の話ですからね」とA野さん。そんな時代から延々と続いているのが今の街頭給食である。衣料品や日用品配布など、ずっと続けてきたのだ。

品性の改変と環境の改変

また、これは、救世軍の学校でも教えているが、救世軍として一番重要視しているのは、品性の改変と環境の改変である。創立者のウィリアム・ブースは、例えばホームレスの人であっても、ただ食物を与えるだけではなく、聖霊による心の生まれ変わりが必要だと言っている。それが救世軍の信念だ。時代が変わっても、その信念は受け継がれなければならない。従って、助け方も考える必要がある。

「私は、各地を移動しているうちに、救世軍としての働きがあっという間に何十年にもなりました。ベトナム難民のボート・ピープルを引き取ったりもしました。苦戦は苦戦でしたけど、途中でやめたいと思ったことはないです」。A野さんは、長い救世軍生活を振り返った後、しみじみとそう語った。

(文・社会鍋100年調査隊)

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ボランティア100年やってます

【書籍紹介】
「社会鍋100年調査隊」編『ボランティア100年やってます―救世軍もつらいよ―

救世軍ってどんな組織? なぜそこまでやるの? 社会鍋―救世軍は米国慈善組織の中で最も効率の良い・・・!? 廃娼運動―暴力団に襲われて死者まで・・・!? そのパワーは、どこから? 社会鍋100年調査隊が、その謎に迫ります。

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