戦後71年:激動の沖縄に生きる主の宮 日本基督教団首里教会

2016年8月2日16時10分 記者 : 守田早生里 印刷
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今も首里教会の講壇に残る沖縄戦当時の十字架。新会堂には、この十字架が使用される予定だ。
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琉球の歴史を思わせる首里の町。沖縄県最大の観光名所、首里城がそびえ立つその場所に、かつて日本軍の司令壕があったことを知る人は多くはない。壕の入り口はふさがれているものの、今でも跡を見ることができる。日本国内唯一の地上戦を展開し、多くの犠牲者を生んだ沖縄戦。その中心地にあるのが、日本基督教団首里教会だ。同教会の10代目、竹花和成牧師に話を聞いた。

1908年、同教会は当時の県知事の認可を受けて、首里メソジスト教会として設立。以来、108年もの間、地域の宣教に当たっている。現在の会員数は105人。沖縄戦を経験した人、ひめゆり部隊の親族、対馬丸の生存者など、沖縄の歴史を生きる信徒たちが多く集まっている。「私は、いわゆるヤマトンチュ(本土の人)ですが、信徒たちの多くがウチナンチュ(沖縄の人)です」と竹花牧師は話す。

37年には教会付属幼稚園が設立され、キリスト教会として、広く地域に仕えることとなった。しかしこの年、日本と中国の間で日中戦争が勃発。戦時体制へと突入した。

44年には、当時の軍部に教会が接収される。竹花牧師は、「信徒たちは、軍部に条件付きでこの土地を渡したそうです。『用がなくなったら、必ずこの土地を私たちに返してください』と話したらしいのです。軍部に『モノ申す』なんて、当時はできなかったことでしょうから、神様が与えてくださった先人たちの勇気に感謝しかないです」と話す。軍部に会堂を明け渡した後、信徒の家で礼拝を守っていたが、日曜日も軍への奉仕、県外疎開、防空訓練などで教会の集会は困難となった。

戦況が悪化した45年春、米軍は沖縄に上陸し、地上戦を展開。首里城の地下に司令壕があったことから、首里の町も攻撃の的になった。5月31日には、首里城が陥落。星条旗が翻った。多くの犠牲者を生み、ほとんどの兵力を失った日本軍であったが、そのうちの数人が首里教会に籠城。最後の抵抗をしていた。

6月6日、首里教会は米兵に囲まれ、四面楚歌の状況に。教会に向けて銃を構える米兵の姿、遠く十字架が見える建物を多くの軍人が囲んでいる様子が、米軍の従軍カメラマンによって撮影されている。その写真は、今も歴史を語る1枚として教会に保存されていた。

激動の沖縄に生きる主の宮 日本基督教団首里教会
接収された教会の中に籠城する日本兵を狙う米兵(写真:首里教会提供)

銃撃によってボロボロに傷ついた十字架であったが、その姿をしっかりと残し、戦後、首里の町のランドマークとして、地域の人々がそれを見上げ、焼け野原となった土地に自宅の跡を探したという。

十字架は補修をされていたものの、今も礼拝堂に残っている。どこの教会にもある十字架だが、あらためて近くで見ると、その姿の力強さ、優しさ、そしてその愛に圧倒されるようであった。

「籠城した日本兵の中には、この教会の中で最期を知り、当時の教え通り、捕虜になるくらいなら自害を・・・とその道をたどった者もいたでしょう。その時に、教会が最期の場所となったことで、少しでも平安があったとしたなら、軍部が接収した建物といった意味以上のものがあったのではと思います」と竹花牧師は話す。

2008年、『首里教会100周年にあたって』の冊子の中に、当時のこの状況を見た信徒は、傷だらけの会堂を見て、「エホバはわが牧者なり。われ乏しきことあらじ」と詩編の1編を口ずさんだと記されている。

この沖縄戦によって、同教会5代目佐久原好伝牧師が被弾して召天。マカト夫人、長女、次女、五女、孫2人、1人の信徒が召天した。会堂は壊滅的な被害を受け、しばらくは敷地内に10坪のテントを張って礼拝した。

戦後は、米軍統治下の沖縄で伝道を続けた。米国から資材などの提供を受け、木造の仮会堂を建設した。「日本基督教団とは戦後、一時連絡が取れなくなったようだ」と竹花牧師は話す。日本が終戦した後も、沖縄は米国の戦争に巻き込まれ、その後も戦いの歴史を歩むことになる。

1950年には、沖縄基督教連盟から沖縄キリスト教会に改組、教会の名称を「沖縄キリスト教会首里教会」とした。その後、「沖縄キリスト教団首里教会」となった。

現在の沖縄にも暗い影を落とす「土地闘争」が始まる前までは、米国の教会からも多くの支援があり、また基地内の教会牧師らとも友好関係を築き、沖縄宣教のために共に働いていたというが、土地闘争が勃発してからは、その協力関係も次第に薄れていった。1972年、沖縄が日本に返還されると、それまで県内で使用されていたドルは円に、交通システムは右側通行から左側通行へと大きく変化していった。

竹花牧師は、2004年に同教会で初めての「ヤマトンチュ」牧師として就任した。牧師の父を持つ竹花牧師は、幼いころから引っ越しを繰り返し、全国各地に住んだことがあるが、沖縄は初めてだった。

最初の1年は、無我夢中で信徒から話を聞いたり、文献を読んだりして、沖縄の歴史を勉強した。「懸命に勉強をしても、私は沖縄の人間にはなれないのでは・・・という不安や悩みがいつも頭にあります。何かの話で、『竹花さんは、ヤマトンチュだからね』と言われるときもあります。しかし、私は牧師として、御言葉を取り次ぎ、宣教に努めていかなければなりません。深い悲しみ、苦悩があるウチナンチュの信徒たちに、自分の言葉が『ナイフ』となって刺さっていないかと悩んだ時期もありました」と話す。

10年以上の時間がたって、竹花牧師が見る沖縄は「この土地は、傷つきすぎている」ということだった。琉球処分に始まり、沖縄戦、米軍統治、本土返還後、今も続く米軍基地問題。「これらの歴史を知り、深く傷ついている信徒たちとローマ書にあるように『喜ぶものとともに喜び 泣くものとともに泣く』には、どうしたらよいのかと今も悩むときがある」と竹花牧師は話す。

来年には、多くの信徒の祈りと支えによって、望まれてきた新会堂が完成する予定だ。戦前の首里教会を「復元」する形で建設するという。歴史ある首里城の城下町で新しい建物を建設するためには、「景観条例」の観点から行政とさまざまな話し合いが必要だったが、ようやくめどがついた。

「戦争という愚かな行為のために主の十字架を傷めた」という事実と「主に対する悔い改めと証しを示すこと」を祈り、平和の象徴として「傷ついた十字架がそびえ立つ塔屋の復元」を目指した工事となる。新しい会堂の外には、沖縄戦で傷つきながらも教会の姿を保ってくれたあの十字架も加えられ、首里の歴史と教会の歩みを示す資料室も設ける予定だ。

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