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映画では描かれなかった、あまりに重い教会の犯した罪のディティール 書籍『スポットライト』

2016年5月9日22時52分 記者 : 土門稔 印刷
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+映画では描かれなかった、あまりに重い教会の犯した罪のディティール 書籍「スポットライト」
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(2016年4月7日、竹書房)
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本書は映画「スポットライト」の原案となったボストングローブ紙の600本以上の報道記事をまとめたノンフィクション。映画は取材を続ける記者たちの奮闘をハリウッドテイストで描いた作品だったが、詳細な事実が報告されている本書は、映画よりずっと重く、そして教会に重要な問いを投げ掛けている。

最初に映画の監督と脚本家の序文が寄せられている。新聞は今茨の道を歩んでおり、新聞販売の売り上げは十数年間で半分以下まで落ち込んだという。その中で、時間と労力と資金がかかる昔かたぎの「調査報道」はもはや不要と言う人もいるが、だからこそ映画「スポットライト」は撮影された、と2人は書いている。その映画がアカデミー賞を受賞し、日本でも話題になっていることは、本当に喜ばしいことだ。

全米最大のカトリック都市、ボストン

本書を読むと、事件の背景としてボストンは、都市部に住む380万人のうち200万人以上がカトリックで、米国で唯一人口の半分以上がカトリック教徒を占める大司教区の要であり、全米で最も政治家、警察、法曹、企業の重役に信徒が多く、これまで聖職者の不祥事の隠蔽に大なり小なり協力的だった、ということが挙げられている。

しかし、結果的にそれは多くの人たちの人生を損ない、命すら奪い、そして金銭的にも高くついた。1950年から2015年までに、米国だけで1万7259人の被害者が6427人の司祭を訴え、教会は結局和解のため計30億ドル(約3249億円)以上の和解金を支払い、12の司教区が破産を申請した。

貧困、片親家庭を狙って行われた犯罪

映画でも描かれた、ジョン・ゲーガン神父は、数十年にわたり、名乗り出ただけでも200人近い人々がレイプされたり触られたりしたと主張し、教会に苦情を申し立てていたという。特に痛ましいのは、彼がとりわけ貧しい家庭や、片親の子どもたちを狙っていたことだ。そのような家庭では、神父は父親のような絶対的に信頼できる存在であり、家庭もそれを歓迎し、無防備であることを知っていたからだという。

大規模な報道がなされる前から、子どもが性的被害に遭ったことを知った親が教会に苦情を申し立てたケースもあったが、多くの場合、そのせいで教会内で避けられるようになり、スキャンダルを誘発していると責められた。ゲーガンに4歳の息子が性的虐待されているのを知り、訴えたある母親は、「子どもに教えてきた全て、神と安寧と信頼が砕け散ったわ」と語っている。

子どもたちの言葉もまた痛ましい。「神父様がこのことをママに言ったらだめだって、これは懺悔(ざんげ)だから」「神様はもう僕を愛していない」

教会の隠蔽の構造

このようなケースは他にも多数報告されていたにもかかわらず、教会が組織として隠蔽していた。問題を起こした司祭は、教区を転任するなど“たらいまわし”にされ、多くの場合転任先で同じような事件を再び起こした。教会付属の治療機関に入院させられた者もいたが、数年後出所して教会に赴任すると再び問題を起こした。

すでに1985年には、カトリックの司教全国会議で、精神医、弁護士、教会法の専門家によって「小児性愛は生涯にわたる病質であり、今のところ、時が癒やしてくれるという望みはない」と人事・訴訟リスクが強く警告されていたが、1990年代初めまで全国200以上の司教区では、レポートはほとんど無視されていた。

一方で、訴訟は頻発しており、1984年には9人の被害者に内密に420万ドル(約4億5500万円)が支払われ、1990年には損害賠償として360万ドル(約3億9千万円)が支払われ、聖職者による性的虐待裁判の判例として記録されていた。ニューメキシコ州サンタフェでは200件の訴えで、推定2500万ドル(約27億円)から5千万ドル(約54億円)の和解金が支払われ、教区は破綻の瀬戸際に追い込まれた。

しかし、教会を訴えたほぼ全員が、裁判所に提訴する前に和解金を受け取ることになり、公的な犯罪記録は残らず、もし虐待の細部が漏れたなら、教会は和解金を取り戻せるという秘密保持契約が交わされていた。

ある弁護士はこう述べている。「明らかに、秘密保持契約は加害者に有利に働いた。この契約がさらなる悪行を続けさせたからだ」。そして、事件を起こした司祭は「異常」であり、「まれな例外」とされてきたことが、被害の連鎖を生み続けることになった。

人生を傷つけられ、命も奪われた

被害者たちは、その後も人生で大きな傷を受けたままとなった。被害者が加害者の司祭に銃を発砲し、重傷を負わせる事件も発生し、被害者や加害者の司祭が自殺したケースも多数起きたというのが痛ましい。

12歳の時に虐待を受け、20年間苦しみ続けてきた男性の言葉は重い。彼は3歳の息子を過保護なほど気を使いながら生きているという。

「絶対に目を離さない。いつもそばに置いておく」「誰も信用しない。司祭が子どもに性的いたずらができるなら、どんなことだってあり得るからね」

別の男性はこう語っている。

「われわれのカトリックに寄せる思いを破壊しただけでなく、信仰体験をもだいなしにした」「ほかの全てがだめになっても、教会だけは最後の砦だった。今はどこへ行けばいいんだ?」「司祭たちのしたこと、教会がしでかしたことの波紋は・・・とてつもない。彼らが手を下したとき、まだ定まってもいない若い人生を破壊したんだ」

研究者からの教会制度と神学教育への問い

聖職者の違法行為を調査しているインディアナ大学社会学部の教授は「カトリック教会ほど、この問題に大々的にむしばまれている宗教はない」「その数はプロテスタントの比ではない」という。別の研究者は「強欲で常習的な子どもへの性的虐待者はプロテスタントにいないし、プロテスタント組織はカトリック組織のように寛容ではない」と指摘している。

神学校の教師でもある神父は、その原因が司祭職制度そのものに内在すると指摘している。孤独な職務であり、特権が与えられ、若者、特に少年と接する機会が多々ある。司祭が女の子といると警戒されるが、男の子なら誰も不審に思わない。また、適性検査なしに神学校に入学を許可され、神学校教育の中では全く性教育が行われず、親密さと性の問題に対峙する必要性が認識されない。

もし思春期に神学校に入って、自分の性的指向(セクシュアリティー)を自覚する機会を持たず、一度も他者との親密な関係を結ばずに終われば、矛先を向ける相手が身近にいる若者たちとなる危険性は極めて高いという。

また、問題を起こした司祭が送られる精神療養施設の多くが、教会が出資しているいわば「身内」の施設であったことへの批判もある。精神科医のアドバイスを受け入れず、危険な司祭の多くは再び教会に戻った。そして、教会と精神科医の間で責任のなすりつけ合いが起きたという。

事件を犯した司祭たちは転任し、治療施設に入院し、司祭を辞めた後も年金を受けるなど、「保護」といってよい状態にあった。一方で(司祭と許可を受けた助祭だけが洗礼を授けることができるという)教会法に反して、2人の少年に洗礼を施した、72歳の修道女シスター・ジャネット・ノーマンディンは修道会から追放された。この二つの事件への教会の対照的な態度への怒りも述べられている。

「本当にむかつくのは、彼らに比べれば、とるに足らないことをした人々に、教会がどれほど冷酷かつ不寛容だったか、知っているからだ。離婚したカトリック教徒を賤民扱いし、教会での再婚を許さない彼らを見てみたらいい。ゲイの人々にどれだけ不寛容で手厳しいか、見るといい」

この辛辣(しんらつ)な批判は、私が所属している日本基督教団を思い出さずにはいられない。熊本白川教会の牧師によるセクシャルハラスメント事件で敗訴が確定しても、組織としては何もしない一方で、フリー聖餐を理由に横浜紅葉坂教会の北村慈郎牧師を免職し、神学大学の教授がゲイの人々に明白な差別発言をしても、全く反省もせず、責任もとっていないというのは、ほとんど同じ体質としかいいようがない。教会が「権威」を持つとき、似たような腐敗が始まるのだろうか。

スケープゴートとしての同性愛批判

また、加害者にはゲイの司祭も多くいたものの、研究では、同性愛と性的虐待に関する関連性があるかは、統計からは明らかになっていないという。ゲイの司祭の大半が、もちろん性的虐待をするわけではない。しかし、これらの事件と報道のあと、教会の中ではゲイの司祭への批判が強まり、叙階すべきではないという議論が起きたという。しかし、カトリック教徒のゲイ団体「ディグニティUSA」の代表はこう述べている。

「彼らはゲイの司祭たちを、何十年も続いた犯罪的虐待のスケープゴートにした」

全く同感としか言いようがない。問題は「同性愛がキリスト教や聖職者として正しいか否か」ではなく、「聖職者による性的虐待」という刑事事件が頻発したこと、教会が組織として隠蔽し続けてきたことなのだから。

ショックのあまり論点をずらしては、問題を見誤るだろう。

教会の「変革の苦しみ」

最終章では、「変革の苦しみ」と題して、教会再生のための取り組みについても記されている。神学校では、近年教育の改善が行われているという。召命担当の神父は、神学生にシンプルだが貴重なアドバイスを述べている。

「友達を作れ、常に『神父』として接する必要のない仲間を。リラックスする時間を作れ」

またカトリック教会の内部では、司祭の独身主義に対する疑問や、信徒同士の団体も立ち上がり「権力と男性優位と秘密主義」への批判と「教会の権力構造を変えなければなりません」という声が、歴史上かつてないほど強まっているという。

最後に

本書には、映画のような感動もカタストロフもない。読んでいてただ驚き、呆れ、茫然としてしまう。ただただおぞましい。300ページ読んでいて、唯一胸を打たれたのは、父親と2代にわたって虐待を受けたブレンシェットという男性のエピソードだ。彼が虐待を受けた神父の元を25年ぶりに訪ねたときのことが、こう記されている。

「『私がここに来た本当の理由を言います。私がここに来た真の理由は二十五年間あなたを憎み、敵意を抱いてきた許しを請うためです』私がそう言うと、彼は立ち上がり、噛みつくように言いました。『なぜ、私の許しを請うんだ?』涙ながらに私はこう答えました。『なぜなら聖書に汝の敵を愛し、自分を虐げる者のために祈れとあるからです』と―」

胸にパンチをくらったかのようにバーミンガムは崩れおちたと、ブレンシェットは言った。司祭は泣き崩れ、ブランシェットも泣いていた。

クリスチャンとして胸を突かれるシーンではあるが、このエピソードをもって「赦(ゆる)し」や「和解」で片付けることはとてもできないだろう。しかし本書が、日本の教会にも大きな問い掛けを突き付けていることは間違いない。近年キリスト教について書かれた本の中で最も重要な読まれるべき1冊だ。

スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(2016年4月7日、竹書房)

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