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戦争経験者に聞く戦後70年(5):特攻兵器人間魚雷「回天」隊員からイエズス会士へ 大木章次郎神父の信仰と倫理と戦争①

2015年8月12日11時04分 インタビュアー : 土門稔 印刷
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伊万里の聖母トラピスト修道院で
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大木章次郎神父は今年89歳になる。上智大学の予科から1945年に海軍に入隊し、特攻兵器人間魚雷「回天」の搭乗員として広島・大竹の潜水学校で訓練を受けた。終戦後はイエズス会の神父となり、栄光学園(神奈川県)などで倫理の教師として勤めた。そして、1977年からネパールのカトマンズに渡り、障がいのある子どもたちのための学校を設立し、30年間にわたり地域の貧しい人々と共に生活し、奉仕した。2009年に帰国し、現在は佐賀県にある伊万里の聖母トラピスト修道院で生活している。

その生涯を聞き書きとしてまとめた『大木神父 奮戦記』(2011、小学館スクウェア)の中では、戦争のただ中を生きた一人の若者の信仰と倫理がつづられている。そしてその信仰と倫理が戦争だけではなく、大木神父の89年の生を貫き、支えていることが伝わってくる。

伊万里の聖母トラピスト修道院を訪ね、著書をもとに話を伺った。修道院は伊万里駅から車で15分ほど。美しい緑が広がる、静かな山の中にある。

クリスチャン一家で生まれ、少年時代に神父へ憧れる

大木章次郎神父は1926年、東京・大森の熱心なカトリックの家庭で10人兄弟の7人目として生まれた。小さな頃からミサでは司祭の侍者を務め、米国で浮浪児のための施設を開いたフラナガン神父の映画『少年の町(原題:Boys Town)』を見て、神父に憧れて育った。

1942年に16歳で上智大学の予科に入学する。予科を卒業後、文学部哲学科を専攻し、そこから神学科、司祭という道を考えていた。当時の上智大学には、イエズス会以外の修道士や司祭、さらにプロテスタントの牧師を目指す若者も学びに来ていた。しかし、入学しても講義は行われず、冶金工場での勤労動員に駆り出され続ける日々だった。

神の召し確認のため、海軍を志願

戦争経験者に聞く戦後70年(5):特攻兵器人間魚雷「回天」隊員からイエズス会士へ 大木章次郎神父の信仰と倫理と戦争①
『大木神父 奮戦記』(小学館スクウェア、2011年)

1943年になると、学徒出陣で一期上の先輩が戦場に送られた。士官は「消耗品」となり、補充のために海軍も陸軍もおおわらわで学生たちを募集していた。大学から志願すれば将校待遇で入隊することができた。1945年2月に、19歳で海軍士官を志願し、入隊した。

「海軍に入るとき、私は死ぬつもりだったんです」と大木神父は言う。

「神父になりたいと子どもの頃から考えていました。でも、神父になるのは簡単なことではない。一生涯の問題です。その難しい道に入る能力があるか、それが自分でも分からなかった。

青春時代、ロマンチックな夢や現実がいろいろありました。私は“ワル”でガールフレンドも何人かいました。でも『このお嬢さんに自分の一生をささげちゃうのはもったいないなぁ』と計算してしまう。会社員などになるのには何の魅力も感じなかった。たくさんの人に尽くす神父になることに魅力を感じていました。でもこんな自分がなれるか分からなかった。

だから一番危険なところに身を置いて、肉体的な命、精神・道徳的な身の持ち方を守り通せたら、神様が自分を使おうと呼んでおられる証しなのだろう、不適当だったら戦死という形で神様は私を天国に呼んでくださる、そう考えたのです」

当時、教会の中でも特攻隊のことが話題になっていたという。

「新聞で神風特別攻撃隊のことが華々しく報じられていました。記事を見たとき、『偉いな』と思いましたね。使命を甘受し遂行するという意味において立派だと思いました。でも後になって私が特攻隊員だったと言うと、信者の人からも、そうでない人からも、カトリックでそんなこと信じられないと言われました」と大木神父は言う。

特攻作戦は自殺行為であるため、カトリックの信仰からは許されないという考え方が教会の中にあった。しかし、大学の神父たちは別の考えを持っていたという。

戦争経験者に聞く戦後70年(5):特攻兵器人間魚雷「回天」隊員からイエズス会士へ 大木章次郎神父の信仰と倫理と戦争①
少年時代。後ろから2列目右端が大木神父。

「ヨハネ15章13節の『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』。最後の晩餐のところに出てくる言葉です。この言葉を引用して、『国と国民のために命をささげるよりも大きな愛はない。ですから、もし特攻隊に入れと言われても悩むことはありません』と仰っていました。

自分を殺すということは許されない。しかし、カトリックの倫理哲学の中には二重結果説というものがあります。一つの行為が悪しき結果と良き結果の二つを引き起こす場合、一定の条件を満たすなら、悪しき結果を引き起こすものであっても、その行為を『正当』『弁明可能』とできるという命題です。特攻作戦は自らを殺すことであるが、『共に生きる者を救うため』という愛徳のためにこの作戦に参加することは許される。結果は敵艦が沈むと共に自分の体も死滅する。自死を目指してやってはならないが、戦闘員としての戦闘行為を愛徳の行為として行うことは許される。

殉職もそういうことですよね。誰かを救うために死ぬ。自殺を目的としてはいけないが、結果の死も私たちにとって一つの門をくぐるだけのことだという信仰があれば、死は絶対の悪ではない。当時、神父たちはそう説明しました。私もそれが当てはまるなと考えました」

そして大木神父は続けた。

「キリストもそうだったのです。全人類の(罪の身代わり)ために、キリストは十字架に渡される。それを言葉だけではなく、次の日それを実践されたのですから。戦争が終わった後、生きている中でいつも考えてきたことです」

予備学生として海軍に入隊

海軍に入ると、広島・大竹の潜水学校に集められた。訓練はわずかひと月の初歩的なものだけだった。鉄拳制裁もあった。「修正!」「足開け!」「歯を食いしばれ!」と言って殴られた。

「海軍兵学校出身者は職業軍人だけど、私たち予備学生は大学から入ってくる。たたき上げの下士官たちには私たちより年上の人もいて、『勝手に俺たちより偉くなるのはけしからん』と反発を示す人たちもいました」

家族に手紙を書くと士官室に呼ばれて、怒鳴られた。「貴様の手紙はいつもお祈りお祈りと書いてある。貴様はキリシタンか。キリスト教の神様にお祈りして勝てると思うか」

水中特攻・人間魚雷「回天」に志願

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上智大学時代

5月になると戦局が切迫し、特攻兵器である人間魚雷「回天」への志願が募られた。特攻兵器には、戦闘機に爆弾を積んだ空中特攻の神風特別攻撃隊、モーターボートに爆弾を積んだ海上特攻「震洋」、さらに大型魚雷を転用して人間魚雷とした水中特攻「回天」などがあった。

「普通の兵法では戦局は開かれない、もはや水中特攻しか残っていない。国のために身をささげる覚悟がある者は前に出ろ!」と言われた。

その場がしんとなった。しかし、大木神父は「これだ!」と思ったという。神父になれないなら天国に行くんだと、本気で志願した。

「私たちの場合は強制的ではなく、志願した者だけが特攻隊になりました。ただ形としては『強制してはいない』というだけの話です。戦争はどこでもそういう悪い面が避けられないですね」

400人のほとんどが志願した。しかし、6人のみが拒否し続けた。

「この6人は志願したわれわれよりも偉大だったと思います」と大木神父は言う。

「どうしてそんな非国民的な態度を取るんだ。貴様らそれでも日本人か!」と言われ、殴られ蹴飛ばされた。毎日、毎日倒れてもそれがずっと続いた。顔がボールのように腫れ、丸く膨れ、白目は紫になっていた。

「しかし、彼らは『平和日本の再建のために生き残らなければなりません』と言って屈しなかった。1945年5月の時期に『平和日本の再建のために生き残る』という言葉を使ったんですよ。そして最後まで拒否を通しました。本当に偉い人たちだったと思います。毎晩やられても彼らは信念を通した。特攻隊などで命をささげるのは意味がないと確信を持っていました」

制裁が3カ月続き、8月4日に「お前たちは海軍にふさわしくないから帰れ」と言われ、部隊を罷免された。

「でも、非国民扱いで帰る場所も行く所もない。故郷にも帰れなかったでしょう。彼らはどうなったのか全く分かりません」

戦争経験者に聞く戦後70年(5):特攻兵器人間魚雷「回天」隊員からイエズス会士へ 大木章次郎神父の信仰と倫理と戦争①
潜水艦の甲板上に搭載された人間魚雷「回天」

訓練の日々、原爆、終戦

回天の基地は、山口県の平尾にあった。先輩たちが鉢巻きをして実践的な訓練をしていた。しかし、部品が悪く途中で故障して水中に沈んだまま殉職した人も少なくなかったという。特攻兵器を造る工場も、部品が来ておらず工員は手持ち無沙汰で、ほとんど稼働していなかった。毎日、「貴様らの命はあと4カ月だ!」「3カ月だ!」と叱咤(しった)されながら訓練の日々が続いた。

8月6日、朝礼で隊長の訓示を受けていると、「ピカッ!」と辺りが明るくなった。1分後、すさまじい爆発音を聞いた。未曾有のごう音だった。広島湾の島々と中国山脈の山々との間でごう音が長い間こだましていた。そしてキノコ雲を見た。

午後には広島からたくさんの人が国道を歩いてきた。皮膚が垂れていた。着ているものは破れ、半分裸体の人もいた。その日のうちに「広島に特殊爆弾が投下された」と聞いたという。

8月15日、「今日はマリア様の被昇天の祝日だ」と考えていると、昼に重大放送があると言われ、ラジオを聞いた。

「『ああ、解放されるんだ』と感じましたね。そして覚悟を決めたんです。『仕方がない。神父になるんだ』と」(続く

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